平安時代なんて無かったと言っても良いのだ

息子曰く「稲城五中(の1年生が受ける授業)で一番ダメなのは社会」だそうです。

理由を聞いてみました。
授業が下手だそうです。

具体的に何をしているのかを聞くと、以下の三つを毎回やっているとのこと。すなわち

1) 教科書を教師が読み上げる
2) 板書する
3) 生徒は板書を見ながら、配布された穴埋めプリントを埋める

聞いている限りでは、たしかにつまらなそうです。しかも

「今は日本史をやっているけれど、全部小学校で習ったことばっかり」

ともクレームが入っています。

昔から、日本史を小中高で3周やる理由が私には理解出来なかったのですが、まあそこは今回は見逃しておきます。

さて、穴埋め授業ってどういうものなのか、よくイメージ出来なかったので、動画を探してみました。これは一例ですが、youtubeで「中学 社会科 歴史 平安」で出てくる動画はどれも似たりよったりです。

もしも、もしもですけども、自分が研究授業とかでこんなもん見せられたら、最初の5分で帰るか、あとからディスカッションで血祭りに上げますね。

ま、私はよその子のことはどうでも良いので、じゃあ自分なら息子にどう教えるかを考えました。あ、一応、史学科で地歴の教職単位かなり取ってましたからね。

さて。

まずですね、私がもしも中1だったら、授業自慢の動画講師のおじさんたちに問いたいのは、これです。

「何故、794年からの400年弱は、平安時代なの?」

つまり、歴史というのは本来、ず~~~~~~~~~~~~っと連続してるものです。平成から令和になった瞬間に我々の生活は劇的に変わったか? 変わってない。昨日と今日は地続きです。トラックに轢かれて異世界から転生してきた人以外は。

ならば何故、日本では794年からの400年弱を、他とは区別して「平安時代」と呼んでいるのでしょうか? 例えば868年の摂関政治の始まりで時代を切って、それ以前を「天皇親政時代」、868年から1165年を「摂関時代」、1166年以降を「武家政権時代」としたって良いじゃんね?

平安時代は平安京に中央政府があったから平安時代。それは一つの歴史の切り取り方としてアリです。でも、同じ歴史を別の視点から切り取ることも出来る。

ならば、何故、平安時代というのが今、当たり前の時代区分として通っているのか。

少し調べてみると、どうやら平安時代という言葉を、こいつはここで確実に使ったということが確定出来るのは、岡倉天心の日本美術史の講義(1890-92年、東京美術学校におけるもの。後に単行本として出版)くらいです。元号で言えば明治の23年から。それ以前の歴史書だと、江戸時代に水戸藩が作った『大日本史』は紀伝体(天皇の代ごとに切る方式)だから、何時代という概念が無い。同じく江戸時代の『皇朝史略』は編年体(何年になにがあったということを延々と書いていく方式)。新井白石の『読史余論』は摂関政治の前後で切っている。これも江戸時代。

これだけ見ても、平安時代という切り方が絶対ではないことは明らかですね。下手したら、美術史の切り方が発祥かもしれん。

さらによーく見てみると

飛鳥時代:現在の明日香村に大王の宮殿があった
奈良時代:現在の奈良市に最高権力者の宮殿があった
平安時代:平安京に最高権力者の宮殿があった
鎌倉時代:現在の鎌倉市に最高権力者の宮殿があった
南北朝時代:京都と吉野(位置関係が北と南)に最高権力者の宮殿があった。
室町時代:京都の室町に最高権力者の宮殿があった。
安土桃山時代:安土城と伏見桃山城に最高権力者が住んでいた。
江戸時代:江戸に最高権力者の宮殿があった。

つまり、この期間は最高権力者が住んでいる場所で時代区分を切ってるんですね。それ以前の古墳時代や弥生時代、縄文時代は最高権力者がどこにいたか確定出来なかったり、最高権力者というものが日本列島に一人ではなかったりで、最高権力者の居場所での時代区分ができなくなった。明治以降は「東京時代」と呼んでも良い気がするけど、それだと長くなりすぎるから天皇の代で切っている。

統一ルールが無いじゃん!

なんか適当というか、場当たり的というか。でも、そういう適当さ、何となく決まるというところが人文科学の特徴なので、ここでまず憶えるべきは

・平安時代という時代区分は場当たり的につけられたものである
・平安時代とそれ以外の時代を分ける唯一のもの、平安時代の唯一無二のアイデンティティは「平安京に最高権力者が住んでいる」という、これだけ

です。

私ならまずこれを息子に教える。

その上で、法制度史(班田収授制から墾田永年私財法を経て荘園制への移行)、政治史(天智天皇系と天武天皇系の抗争から摂関政治、院政、武家政権への変遷)、宗教史(奈良仏教と平安仏教の違い)、文化史(和歌、日記、平仮名と片仮名の成立、仏教美術、建築様式など)などを、一つ一つの事実について現在、歴史学においてはどのような解釈があるのかを見るようにして(井沢元彦とか百田尚樹みたいな歴史フィクションとの違いも教えつつ)学ぶような学習をデザインしていきますね。

受験に対しては効率的ではないでしょうが、人生全体で考えると、受験対策の代償として歴史を理解するための基礎をアホの沼に投げ捨てるよりも、お得なはず。

間違ってもユーチューブ講義とか見せないように。あれはアホになるコンテンツだよ管見の限りでは。アホ沼の入り口だ。知性のかけらも感じられない。

稲城五中の穴埋め先生(おじさんだそうです)はどうしようか。そんな授業サボって図書館にでも行った方がマシだと思うけどね。