ベラスケスと森山大道を見ながら写真と社会学のお勉強

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 今日は「撮影対象のありようをメタレベルで考えながら撮る」という課題を与えて提出された作品を題材に、演習を行いました。

 

 メタレベル。何だか難しそうな言葉ですよね。

 

 大学2年生の5月には早いように感じる方もおられるかと思いますが、この時期は少しきつめの負荷をかけて勉強してもらう方が伸びるのではないかとの仮定のもとに、敢えて5月半ばの段階でこれを持ってきました。

 

 メタレベル。簡単に言うと、「ある何かの行為や営みがあるとして、その行為や営みの意味を問うと同時に、それをやっている自分たちの思考過程そのものの正しさとかもっともらしさとか確かさについても考える、一歩引いた思考のレベル」。

 

 ちっとも簡単じゃないですね。だから実際に「こういうのがメタレベルなのかな?」と試してもらうんです。こういう時に写真は強いですね~。だって、メタレベルの議論を展開するレポートを書くのはいくら何でもまだ彼らには無理ですけど、写真なら取り敢えず(上手くいくかどうかは別にして)形を付けて持って来られますからね。

 

 「やってみて考える」
「完成させてみてから考える」
「反省しながら進歩する」

 

 レポートとか口頭プレゼンではとても不可能なペースで、学生たちは思考実験とその結果報告を繰り返しています。写真だから、90分の演習で毎週16人が自分の思索の結果を形にして教師に見せられる。これは面白いです。

 

 今日は「大学」という存在や制度、観念をメタレベルで捉えた写真を撮ってこいと指示してありましたが、学生たち自身による討論と相互批評の結果、全体での検討の題材として出てきたのは「講義中にサークルのことをやっているところ」の写真、「1本の木の太い幹の右側には談笑する学生たち、左側奥には就活スーツの女子学生」という写真、そして「狭いキャンパスの中をイモ洗い状態で歩く学生たち」の写真でした。

 

 「講義中にサークルのことをやっている」写真は、「大学は勉強するところだということになっているが、実はそれ以外のことも当たり前のように我々はやっている」という事実を表現したものだそうです。

 

 うん、たしかにそれはそうだ。でも、君たちのワーキンググループの中でこの写真は一発で「なるほど」と納得されたわけだよね? つまりこの写真は、し、ある意味わかりやすい作品として完成されていると言える。でも、この写真の中に「それを当たり前のようにやっている自分たちのあり方について」の考察は含まれているだろうか?

 

 別の言い方をしよう。みんなが一発で理解し、納得したということは、「大学とはこういうものだ」とみんな知っているということだ。だろ? ところが、大学のウェブサイトにはこういう写真は絶対に使われないし、君たちが就活で面接担当者に「大学で何をしてきたの?」と聞かれた時、「講義中にサークル活動の準備をしてました」とは口が裂けても言わないはずだ。そして面接担当者も、もちろん君らが常に講義に集中していたわけでないことは知っているけれども、わざわざ「ところで講義中には何して遊んでいたの?」とは尋ねない。

 

 ここが今日のキモだからね。

 

 「誰もが知っているにもかかわらず、誰もが知らないふりをしているもの」がこの写真にはひとまず写っている。で、メタレベルで考えるというのは、この「誰もが知っているにもかかわらず、誰もが知らないふりをしている」という状況そのものに目を向けるということだ。「もの」プラス「状況」ね。

 

 「〈大学は遊ぶところでもある〉という事実は、誰もが知っている。にもかかわらず、自分を含めて誰もが知らないふりをしている。では、何故、自分たちはそのように振る舞っているのか? そうすることで自分たちは何を得ており、何を失っているのか?」

 

 ここまで写真で表現出来たら満点。メチャクチャ難しいけどね。

 

 2枚目の写真は、写真表現としてはかなりレベルの高いものでした。この作品では「もしも木が無かったら作品としてどうか」「木の存在はどのような影響を作品にもたらしているのか」を検討した後、ピントの位置が人物ではなく木に来てしまっている点を取り上げて、カメラの操作法のレクチャーも行いました。測距点の選択方法、被写界深度の概念とそのコントロール方法、実際の撮影時のカメラ操作の一連の流れ(測距点の確認→絞り値を変えて何枚か撮影→最良のコマを背面液晶ではなくPCモニターで選別)などですね。

 

 ここで学生に質問。

 

「メタレベルで考えるって意味、わかった?」
「わかりません!」

 

 その素直さが可愛いぜちくしょう・・・・・

 

「どの辺がわからないの?」
「メタレベルという言葉の意味はわかったんですが、それをどうやって写真で表したら良いのかがわからないです。」

 

 そりゃそうだよなあ。実際にそんなことが出来るのかどうか。出来る。出来ちゃった人もいるからこそ、課題に出してるんですもの。

 

 私が今日、事例として紹介したのは森山大道の『写真よさようなら』とディエゴ・ベラスケスの”Las Meninas”です。後者は写真ではなく油絵ですけどね。

 

 『写真よさようなら』は、いわゆる「アレ・ブレ・ボケ」写真の金字塔。粒子の粗さ、手ブレや被写体ブレ、ピンボケの三重苦で殆ど何が写っているのかわからない写真ばかりが集められた分厚い写真集です。これが世界写真史の中でも極めて重要な写真集になってしまっている。それは何故かといえば、「粒子は粗くない方が良い写真」「手ブレや被写体ブレが無い方が良い写真」「中心となる被写体にピントが合っている写真が良い写真」などなど、それまで写真を撮る人たちが当たり前すぎるくらいに当たり前のこととしていた数々の価値観を丸ごと破壊してしまったから。それらの価値観の存在を明るみに出した上で、その正当性に疑問符を付けたのが、この写真集でした。

 

 わかりますか? 写真を撮るという行為、写真というメディアが当然の前提としていたもの(思考過程)を、写真によって批評し、解体しちゃった。凄い。

 

 ベラスケスの”Las Meninas”はどうでしょうか?

 

 これはスペイン王フェリペ4世の王女とその女官や道化たちを描いた超大作ですが、何故か画面の中にディエゴ・ベラスケス本人も描き込まれている。では、この絵は誰の視点で描かれているのか? ベラスケスではなく、奥の鏡に映った二人の人物すなわちフェリペ4世夫妻の視点ですよ。絵の中でこちらを見ているベラスケスは、同時に彼の主人であるフェリペ4世の視点も持たざるを得ない。それが彼の仕事、世界で唯一人フェリペ4世の肖像画を描くことを許された宮廷画家の仕事なんですものね。

 

 でも、それだけではありません。この絵をよ~く見てください。この絵に描かれた人物たちの中で、私たちを、つまり私たちに視点を提供しているフェリペ4世を無遠慮に睨み付けている人物が一人だけ見つかりますね。そう、ベラスケスです。超大国スペインの絶対権力者たる国王の顔を、ここまで無遠慮にじろじろと見つめても無事でいられるのは、世界で唯一人、ベラスケスだけ。

 

 「宮廷画家は自分の眼ではなく、国王の眼を通して絵を描かねばならない」
「だが、宮廷画家だけが国王の顔を無遠慮にみつめ、眺め回し、その細部に至るまでを我が物とすることが出来る」

 

 なんちゅう複雑な構造なんでしょうか? 雇われであり、自分の視点を持つことを許されない立場であるにもかかわらず、その雇い主たる絶対権力者の容貌の全てを観察しつくし、自分のものにする特権の持ち主でもある。それが宮廷画家だ。

 

 ・・・というようなことを、ベラスケスは言いたかったのかもしれない。仮にそうだったとしたら、この作品は見事にそれを表現し、さらにはそこに留まらずに銀河系を突き抜けて神の領域にまで達してしまった何ものかとなった。凄すぎるよ、ディエゴ。

 

 いや、さすがにここまでやれとは言えませんけれどもね。でも、一枚の静止画像でどこまで複雑な概念が表現出来るのか、それはわかってくれたよな?