二つのニュータウン

 年末年始に実家に行った際、息子を連れて近所の公園へ散歩に出かけてみたのです。

 私がその土地に住んでいたのは1980年4月から1990年3月までのジャスト10年間ですが、当時はそこがどのような土地なのかなど興味がありませんでしたし、つい最近までもそうでした。ところが最近、多摩・武蔵野の土地を色々と見て回るようになり、まあ「目が肥えた」というんでしょうか、宮本常一先生ほどではありませんが、土地の来歴をそれなりに読み取れるようになってきたんですね。

 今回、その「目」で実家がある場所を見てはじめて意識したんですが、あそこも実は「ニュータウン」だったんですよ。公園の中の少し高くなった場所に置かれた石碑をよく読んでみると、これは区画整理事業完了の記念碑だったのです。名古屋市の郊外で幹線道路のすぐ脇にある山林を放置しておくのはもったいないというので、地主さんたちが1972年から1980年までかけて区画整理事業をしたと。言い換えれば、里山を切り開いて宅地にして売ったわけですね。今から29年前の話です。

 ところが。街が出来てもう30年近く経つというのに、いまだに売れ残っている土地がちらほらあるんですよ。私の記憶では、1980年の時点で7割くらいの土地には家が建てられていたんですが、現時点でもまだ1割前後の宅地が売れ残っている。さらには街開きの頃に立てられた家が取り壊されて更地になって売り出されたりしている。そして、これは昔からそこはかとなく感じていたんですけれども、「街につかみ所が無い」。

 本当にこう、農用林だった丘陵地を更地にして矩形の街区を作って宅地として切り売りしましたという以外に、何も感じられない土地なんです。一方、今私が住んでいる土地もニュータウンなのですが、こちらは街開きから20年経ってなかなか良い風合いが出てきているんです。街そのものも、土地に馴染んでいるような気がする。何より、息子を連れて歩いていて心躍るのは、この多摩丘陵の上に開かれた街の方なんです。

 何故なんだろうか。よくわかんねえな・・・と悩んでいた時に、こんな文章に出会いました。

「こんなことを書くと、おそらく建築家からは「偽善」だの「建て前」だのと糾弾されそうだが、自己実現のみを目的としている設計家ばかりでないのは、少なくとも土木設計においては「事実」である。少なくとも大地に刻印するがごとき土木という建設行為において設計者は、無為な祈りのようなものを失っては、その造形を風土に定着することを成し得ない。これは美学でもなんでもない。ただの経験則である。」(小野寺康)

 小野寺さんという方は門司港駅前の広場など公共空間の空間設計を手がけておられる人物で、特に海や川と接する公共空間を得意とされています。その設計の手法は、その土地の風土や歴史性を充分に勉強し、出来るだけ地場の素材や職人さんを使いながら、地元の人々とのコラボレーション作業として空間を創造していくというもの。

 私の街を設計した人が誰なのか私は知りませんし、全てが完璧というわけでもなく、意味不明のパブリックアート(の残骸)はあちこちに放置されているし、ベビーカーや車椅子のことは考えていないし、雨が降るとミューが極端に低下する馬鹿な石材で石畳を造っているしと、タコな部分も少なくないのですが、それでも街全体のデザインには、小野寺さんのいう「祈り」のようなものがあったのかもしれない。そう感じます。

 ですから、実家がある土地については言わずもがな、建築家が街区全体をデザインした調布市仙川の「安藤忠雄ストリート」などと較べても遙かに風土に馴染んでいる。造形が風土に定着している。よく晴れた日に川向こうの丘から街を眺めた時など、本当に美しいと思いますからね。