シンポジウム報告その3・結城幸司さん

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 横浜シンポジウムでは藤崎さんの盟友であるアイヌ・アート・プロジェクトの結城幸司さんも来ておられました。というか私が藤崎さんに、是非結城さんも連れて来て下さいとお願いしたのですが。そもそもシンポジウムでアイヌの話が出るのに、当のアイヌの方に発言するチャンスが無いなんてバカなことは赦されないと思いましたのでね。
 
 さてその結城さんは、藤崎さんの発表の後に少しだけ話をして下さったんですが、これが非常に深い話でした。以下に概要を示しますと、

(ご自身の活動について)
「アイヌというのはこれまで『観光地の人』『差別されてきた人々』というような悲しいイメージでばかり語られて来た。それが自分はとても嫌だった。だから自分は、希望のある文化としてアイヌ文化を位置づけたいと考えている。」

「ただし、アイヌというものに自分が行き着くまでには非常に時間がかかった。アイヌが大嫌いだった時期もある。北海道から離れた時期もある。しかし最終的には北海道こそ自分の場所、自分が一番気持ちよく生きられる場所だということを発見した。」

 参考までに書いておきますと、結城幸司さんのお父様は現代アイヌ史でも最も激烈な運動を展開されたアイヌ解放の闘士でした。ちょっと調べれば必ずその名前に行き当たるくらいの方ですよ。こちらの藤崎さんのウェブログでは、アシリ・レラさんが結城さんのお父様に少し触れておられますね。
http://www.shinra.or.jp/archives/tatsuya/002166.php

(色々と遠回りしながら最終的に自分のルーツである北海道島・アイヌに帰り着いたご自身の経験から)
「今の日本では、『感動』を他人に求めたり、お金を出して『感動』を買うことが多いと思う。例えば他所の聖地にわざわざ『感動』しに行くというような行動がそれだ。だが、自分自身の足下にも聖地はあるはず。聖地は本来お金を出して買うものではなく、自分たちで創るものだと俺は思います。」

(アイヌ文化について)
「自分たち現代のアイヌは昔のような生活をしているわけではないし、やろうとしても出来るものではない。自分たちがやろうとしているのは、かつてのアイヌ文化に立ち返っては、そこにある大事なものだけ取り戻していくということ。これはアイヌに限らず日本の人たちも取り組むべき活動だと思う。」

 この結城さんの指摘はまさに私がこのシンポジウムを通して訴えかけたかったことそのものでした。ともすると、ホクレアという船に触れる目的が「感動すること」そのものになってしまっている人も居るんじゃないかと感じてましたから。でも・・・・それって違うよね?

 私は1月から「ホクレア号航海ブログ」を翻訳し、また周防大島や広島や横浜でホクレアの航海を実見しても来ましたが、特に実物のホクレアに触れてからは、ある一つのイメージが私の内面で徐々に確固たるものになっていくのが解ったんですよ。横浜にホクレアが到着した段階では、それが何だかも、何故そのことばかり私が考えるようになったのかも、全て解っていた。だから接岸したホクレアを見ても涙は出ませんでした。泣いてる場合じゃないと思ってましたからね。

 このホクレアの日本航海に接する中で私の内面に浮かんできたもの、それは私の住処である多摩南部の街並み、野山、川。そんなようなものです。ホクレアを見ながら私はそのことばかり考えてました。私の聖地はそこにあります。私にとってはホクレアと同じかそれ以上に神聖なものです。

 別に自分が生まれた土地じゃなくて良いんですよ。藤崎さんだって生まれは多摩南部だけど知床に根を下ろしているし、マカさんだってカウアイ島生まれでカホオラヴェ島を守る活動を30年続けている。私だって生まれは三河です。要は「自分はこの土地から逃げ出さずに生きていく」と誓える場所を持っているかどうかです。