田中昭史さんの写真集『多摩景』を見ました。
田中さんはニコンに勤務しながら、この「多摩景」と題された写真のシリーズをこつこつと撮っては発表してこられた方です。写真集は2005年に出ています。
撮影地を見ると、立川や昭島、国分寺、国立、小平、東大和、府中などで、一言で言えば多摩川左岸。そして数枚のカットを除けば全て武蔵野台地上の「郊外」の写真です(残る数枚は崖線下の多摩川低地)。全て白黒で、なおかつ人工物が主題となっていますね。
解説を書いているのは東京芸大の伊藤俊治さん。石川直樹さんの博士課程での指導教官だった方です。伊藤さんはハンフリー・カーバーという人物の郊外論を引用して、郊外には三つの悲哀があると切り出します。様々な人工物や自然物が脈絡無く混じり合う「混乱の悲哀」、型通りの集合住宅や建て売り住宅が並ぶ「画一化の悲哀」、そして何かが欠落しているという感覚がつきまとう「欠落の悲哀」であると。
伊藤さんはこの論を無批判に受け入れ、郊外をそういうものとして捉えつつ、田中さんの写真には、郊外に住む人々がそれらの悲哀とやらを既に当たり前のものとして受け入れ、愛着さえ感じ始めているその気配が描写されているとまとめます。
何を言っているんだろうかと思いますね私は。
それこそ紋切り型の郊外論の縮小再生産でしかない。田中さんの写真がそういう郊外論を流用して撮られていることを私は否定しませんが、田中さんの写真がそのように撮られているということと、実際の武蔵野にそのような悲哀があるということは、別問題。つーか街並みの脈絡の無さだの画一化だの、明治通りや山手通りの内側だって同じだろうがよ。あほかいな。郊外に何かが欠落してる気がするってのは、てめえの感受性が腐ってるだけじゃ。勉強しろ、勉強を。まずは図書館に行け。郷土誌の棚を左から右に片っ端から読んで来い。話はそれからだ。自分が住まわせていただいている土地への感謝と愛が足りないだけなのを責任転嫁すんな。
例えば前にも書きましたけど、瑞穂町に箱根ヶ崎という土地があって、狭山丘陵と多摩川の間を移動していたら、どんなに抵抗してもブラックホールに吸い込まれるようにこの何の変哲もない界隈に吸い寄せられてしまう。何かあの場所には尋常じゃない力が働いているとしか思えません。欠落なんてもんじゃないっすよ。武蔵野台地の重力異常地帯と言っていい。実際、あの吸い寄せられ感の不気味は凄いんです。どこ走ってるかわかんねえなあと思ってたら、たいがいあそこに出ますから。
「また、箱根ヶ崎かよ!」
何度この台詞を呟いたことか。武蔵野台地はただもんじゃないです。郊外なんて下らない言葉で十把ひとからげに出来る土地じゃない。
私は断固主張しますね。まずは武蔵野台地なり多摩丘陵なりを自分の脚で1万キロ走って来いと。それでも混乱とか欠落とか画一化とか思うんだったら、それは認めてやるよと。
写真は全て多摩ニュータウンで私が撮ったものです。ここには、多摩の丘に根を下ろして生きている人々の生命の確かな存在感がある。紋切り型の郊外論を寄せ付けない人生の重みがある。そう感じます。