小林賢太郎さんという方、名前を拝見するのも私は初めてなんですが、きっと今現在は立派な方なんだと思います。ただ、ホロコーストは「永遠に絶対許さない」のスタンスの国が幾つかあるので、どうしてもというのであれば事前に自分から「昔こういうことをやっていた」ことをカミングアウトした上でそれを厳しく批判して乗り越えるような作品を発表してきたならば、何とかなったのかもしれませんが。昔のことだから、で何となく終わった話になってしまうのは、日本国内で完結するクリエイションに限られるのではないかと思います。
「中国だってウイグル人虐殺してるじゃないか」
じゃああなたは小林賢太郎氏のホロコーストギャグも中国のウイグル人虐殺も「許している」わけですか、となる。
(私は中国やミャンマーのような人権状況の国がオリンピックに関わるべきではないと思います)
「尖った発言、尖った表現が出来なくなる」
アングラの場でなら今でもこれからもいくらでも出来ると思いますよ。
しかし、それを世界のどんな場に持っていっても炎上しないレベルの批評性を持った表現に鍛え上げるには、最低でも人社系の修士レベルの知識や思考をフル回転させなければ難しいでしょう。無思慮・無分別なだけの表現と、過激さの持ちうる意味を徹底的に(現代の最先端の各種の批評の理論を確認しながら)考えて考えて尖らせた表現は違う。
日本国内でだけ通用する「(アート無罪の)現代アート」とcontemporary artの違いでもある。
「こんな昔のネタまで掘られたら誰だってアウトだろ」
障害者虐待・性的虐待・ホロコーストを笑う表現を自分のビジネスに活用していた人というのは、そうそう居ないと思います。
20世紀末の日本の「サブカル」を批判的に乗り越えないままここまで来てしまったことの金利は大きかったですね。
それにしても、90年代日本の「サブカル」を主導していたのは現在50-60代の方々の一部と思いますが、あの冷笑的で虚無的なノリは一体どこから来ていたのか。
デリダの「差異の戯れ」とか、社会構築主義とかを借用したマウンティングの一種だったようにも思うのですが。ま、今となっては若気の至りですよね皆さん。2020TOKYOは「90年代サブカルの葬式」だそうです。