小説に女性キャラを出したときのジェンダー表象の技法についての覚書と『西の天蓋』での実験

小説に女性キャラを出したときのジェンダー表象について。

単にキャラを出して喋らせるだけだと、読者はそのキャラのジェンダーを想像しづらい。なので、女性であることを印象付けたい場合、以下のような手口を駆使することになる。

  • この人は女性ですとか、生理痛になってますとか、妊娠してますとかの、生物学的な性を書く。
  • この人は誰の娘、誰の妻というように、男役に対する受けポジションにいますよということを書く。(要は男の付属品として書くということ)
  • 「~~だわ」のようなわざとらしい女性性表象語尾を使う。(リアルであんな喋り方する女性、見たことあります?)
  • 「胸が大きい」「太ももが云々」のような身体的な特徴を印象付ける描写を適宜挿入する。(「ビブリア古書堂の事件手帖」や「響けユーフォニアム」で使われている手法)
  • ラノベの場合は「ツンデレ」とか「ボーイッシュ」とか「ドジっ子」とか「お嬢様」といったテンプレベースのキャラ造形で読者のジャンル知識を引っ張ってくる。
  • いかにもな女性名を付ける。

さて、『西の天蓋』のヒロインは、女系末子相続の部族という設定があるので「娘」ということは最初に書いたが、それ以外は徹底的に小説的な女性ジェンダー表象を排した書き方をしている。

名前もわざとジェンダーイメージが弱いものにしている(アイルランドの地方都市の名前を使った)。喋り方も男性キャラでも通用するようなものにしている(毎回、男性キャラだったとしても通用するかのジェンダーニュートラルチェックを通している)。

ヒーローとヒロインの関係性でジェンダーロールが発生する状況も出来るだけ避けていて、ヒロインの専門領域ではリーダーロールはヒロインに移り、ヒーローの専門領域ではリーダーロールはヒーローに、というように、マンスプレイニングが起きないような設定も最初から入れてある。

ただし、ヒーローがそれまで所属していた社会集団では「強力なオス」として周囲から認識されていたということも示すために、冒頭の「トゥーバの戦い」編での指揮官ぶりと、前半の「クレフェの紙市」編でのネゴシエーターぶりを書いた。

その上でダスティ峠での暴風雨への遭遇というアクシデントを入れ、ヒーローのそれまでの最強の武器であった「シニアマネージャー」能力が役に立たない条件で後半の冒険をクリアせざるを得ない状況を作っている。

つまりダスティ峠編を転回点として前半と後半でヒーローの置かれた状況を全面的に変更しているのだ。

わかりやすい喩えをするならば、前半は「大企業でスピード出世したワーカホリックの若手男性社員がバリバリ仕事してる話」で、後半は「見合い結婚をした妻の実家のピンチのために会社を辞めた元エリートサラリーマンが妻と力を合わせてピンチに対処する話」である。

後半で唯一ヒーローが頼れるのはヒロインの知識だが、上で説明したようにヒロインが女性ジェンダー表象を徹底的に削られているので、ベタな男女関係によるキャラクター間の関係性構築が出来ない。

この初期状態からペアで冒険を始めて、「良い仕事仲間」として関係性を作るのか、それ以外の関係性が形成されるのかというのが『西の天蓋』での実験だった。

初日にラッキースケベを入れたのも3日目でダブルベッドで寝かせたのも、実は二人がどう行動するかを観察するため。

どちらのシチュエーションも、ラノベのお約束の書き方で盛り上げるくらいはもちろん出来るが、その展開を必然としなかった時にどうなるか。

書いてみると面白いことにヒーローがヒロインのやることをなんでもそのまま受け止めるようになり、ヒロインはジェンダー不詳のままどんどん話が進んだ。

ただ、ヒロインをなるべくジェンダー規範から引き剥がして書いた時に(村上春樹の小説によく出てくるような)単なる「不思議ちゃん」になってしまわないように、彼女が一方で部族の慣習や価値規範を基本的には受け入れていることと、そこから離れることが不安を引き起こすことも「シャルマの森」編で書いた。

ヒーローとヒロインは伝統的なジェンダーロール、あるいはその反転(どちらも私に言わせればベタだ)の関係に落とし込まなくとも、信頼関係を構築してくれた。

また、どんな行動がジェンダーに紐付いて見えるのかも、書いていて強く意識させられた。

例えばカリュベス編の前半で二人が藍染めの麻布を買うシーンがあるが、これは油断すると簡単にヒロインに女性ジェンダー表象を結合してしまう書き方になる場所だ。だが、このイベントはRPG風に言えば最終ダンジョンクリアのためのアイテムを拾わせるシーンなので、避けては通れない。そこでどういう書き方をしているかは、実際に読んでいただきたい。

こういう実験をしてみて、同時にわかったのは、小説で男女を「良い仕事仲間」として書く時にも伝統的ジェンダー規範を(従うにせよ破るにせよ)書き手は安易に利用してしまうんだな、ということだ。

男性キャラに「男」の記号を紐付けて強調しておいて、女性キャラ側から男性キャラへの恋慕を匂わせる記述を入れれば一丁上がりだ。もちろん逆でも同じ。最近のハリウッド映画を自分は見ていないが、昔のハリウッド映画だったらこの文法を定期的に投下した上で最後にキスシーンで決着が付く。ライダーキックやウルトラマンの光線技みたいなものだ(ダクトテープとキスで全てが片付くファンタジー)

まあそれをやるやらないで映画の売上が全然違って次の仕事が入るかどうかが決まるんだから、やらない手は無いだろう。あれは大衆娯楽の極みであって、ジェンダー表象の問い直しをする場ではない。ハーヴェイ・ワインスタインみたいなのが牛耳っていた業界だ。白人男性を頂点としたありとあらゆる差別が裏の棚にはしまってあることだろう。

西の天蓋表紙

『西の天蓋』はヒーローとヒロインの関係性が全然ヒーローとヒロインに見えない、だからこんなものは読まれないし売れないと散々批判されたのだが、ジャンルフィクションではなくリテラリーフィクションとして書いているファンタジーなので、そこは残念だが作者としては諦めている。

この実験を面白いと思ってくれる読者がどれだけいるかが勝負である。

追記:最後まで書き上がったものを見せたら、これはちゃんと恋愛小説になっていたと言ってもらえたので、ジェンダー表象のお約束を廃した書き方もそこそこ機能したようである。