先住民観光と苦悩の文化人類学者たち(前編)

 文化人類学者の吉岡政徳さんの『反ポストコロニアリズム人類学』という本を読みました。吉岡さんはメラネシアをフィールドにしておられる方で、しかも私が嫌いな(笑)ポストコロニアルを正面から批判した本という事で、目にした瞬間に手が伸びていましたよ、ええ。

 さて、ポストコロニアリズムについては私も以前に批判記事を書いておりますが、

http://blogs.yahoo.co.jp/hokulea2006/177230.html
http://blogs.yahoo.co.jp/hokulea2006/187225.html

吉岡さんはさらにポストコロニアリズムを二種類に分けて、文化帝国主義(アメリカやヨーロッパのような強力な経済力と政治力を持った地域の文化が、相対的にそういった力の弱い地域に入り込んで行って、現地の文化より優れたものとして君臨してしまうような現象)を認める立場と、そういった考え方自体、ある地域に固有の文化があるという前提(本質主義といいます)でものを語っていて、文化が変化していくという点を見逃していると主張する立場があるとしています。

 私はだいたい両方とも嫌いなんですがね。

 前者で嫌なのは、上で紹介したように、ある地域や集団に確固とした文化の内容と外延があって、それは揺るぎなく不変なのであるという単純素朴な彼らの信念が、実のところはマイナーな立場の人たちを無視することで成り立っているからです。例えば自民党が新しい憲法の草案で日本の風物として書いているのは、概ね本州島の風景であって、沖縄や小笠原あたりの自然とは懸け離れています。

 後者がムカつくのは、前者を批判したいが為に「文化は変化するものだから、誰が何をどうしたって良いだろう」というパンクな主張に陥りやすいからです。私は文化というものを、個々の構成要素を全部足し合わせたものとは考えていません。そういった構成要素がどんなバランスを保っているかが決定的に重要であり、バランスに気を遣わないままに好き放題する事は、文化の変化を促すどころか、バランスを崩壊させて全てを消失させる可能性があるのです。人間の体は常に細胞が死に、新しい細胞が生まれて全体のバランスを取っていますが、そこに全体のバランスを考慮せずに増殖する無神経な細胞(=ガン細胞)が付け加わると、有機体としての人体のバランスは崩れて、最終的には全てが失われますね。

 それと同じように、文化の一部がバランスを保って更新されてゆく事と、無神経な外部からの異分子の挿入によって全てのバランスを壊す事は、全く別のお話です。その文化圏のペースに合わせて、内容Aが内容A'や内容A''に置き換えられていくのであれば、全体としての情報量は不変です。

(ABCDEFG)→(A'BCDEFG)

ところが文化圏の許容限度を超えて内容AとBとCを全部内容A''に置き換えたら?

(ABCDEFG)→(A''A''A''DEFG)

情報量がガーンと減りました。というか、本来7つの要素で成立していたものが5つの要素になっちゃったんだから、これは要するに(ABCDEFG)が('A''DEFG)に溶け崩れたって事です。内容BとCおよび、7つの要素で構成されていた全体という情報も消えてしまった。

 何でも混ぜれば良いってもんじゃないっすよ、旦那。

 まあ、それに加えて、以前の記事で書いたように、前者も後者もだいたいが他人の揚げ足取りにばかり熱中するようになるという、救いがたい性質を兼ね備えておられますので、あまりお近づきになりたくないわけです。

 でまあ、私のような門外漢の場合は、「ああ、ポスコロ? あっち行け!」で万事問題無いのですが、吉岡さんのような本職の文化人類学者はそうもいかない。それで堪忍袋の緒が切れて執筆されたのがこの本なんですね。

 ちょっと長くなりそうなので、ここで一端切ります。次の記事では、吉岡さんが先住民観光とポストコロニアルと文化人類学者の苦悩を論じておられる7章の議論を紹介します。

次の記事はこちら
http://blogs.yahoo.co.jp/hokulea2006/5440772.html?p=1&pm=c