http://blogs.yahoo.co.jp/hokulea2006/5366545.html
(から続く)
さて、続きです。
そういうポストコロニアリズムですが、吉岡さんによれば、オセアニアにおいて、(前の記事における後者の)ポストコロニアリズムは独特の展開を辿ったのだそうです。
「何でも良いんじゃないの」型ポストコロニアリズムは、ある文化に本質的な何かがあるという事を認めません。だから何でも混ざっちゃっている事にするし、混ざっちゃってオッケーとする。ところが、こういった言い方を全方位的にやった結果、当のオセアニアの人々からクレームが付いたのです。
ここでやっと航海カヌーのお話に繋がるのですが、航海カヌー文化復興運動が始まった時点で、オリジナルの航海カヌーというのは、カロリン諸島やタウマコ島など、全体としてド田舎であるリモート・オセアニアのなかでも、極め付きの田舎、海の果てみたいな所にしか残っていませんでした。だからホクレア号は、西洋人のスケッチを参考にデザインされてグラスファイバーで作られたわけですし、ハヴァイロア号の船体設計が難航し、索の製造法はサタワル島から教えて貰ったわけです。
しかし、こういった形で過去の文化を復元していく事は、文化人類学者が好きな言い方を使うなら「伝統の創造」である、つまり、パチもんを本物と偽ってると。ポストコロニアル文化人類学者はそう言ったのですね。有名なのが、以前にも名前を挙げましたがリネキンという学者です。それで先住ハワイアンの知識人たちが猛然と反論したという話は、ベン・フィニーの「Sailing in the wake of ancestors」にも紹介されています*。
そこでポストコロニアルの人類学者たちはジレンマに陥りました。もともとポストコロニアリズムというのは、旧植民地の人々が、独立後も相変わらず先進国に押さえつけられているのはイケナイ事だよねという実感を出発点に持っています。それで、具体的に何がどう押さえつけられているのかというお話をする際に、サイードという文学者が考えた理論、「西洋人は、自分たちを進んだもの、自分たち以外を遅れたものと見て、そういう前提で自分たち以外のものについて記述してきてズルいです。」というものを借りてきました。
つまり、西洋は進んでいるからエラいという結論を先に出してしまって、そこから逆に遡って、西洋以外のものがエラくない理由を探していたんじゃないのという事です。良く居るじゃないですか。先に自分の出したい結論が準備してあって、その結論に都合が良い材料だけ持ち出して話を創る人たち。西洋人は全体としてそういう人たちだっただろとサイードという人は言いました。
おわかりのように、この理屈は文化人類学者を直撃轟沈させるものでした。だって西洋のテリトリーから「未開」の地に出かけていって、そこで見聞きしたお話を西洋に紹介してきたのが文化人類学者なんですから。彼らが集めたお話をもとにして、西洋人は西洋以外のものを「遅れた」「未開の」ものとする価値観を創り上げてきたわけです。
そこで、罪滅ぼしとして、「いや、本当は文化に進んだとか遅れたとか無いんです。」「結局ものの見方の問題ですから、誰が見てもこの文化はこうなんだ、なんて言えるもんじゃないんです。」と言い出した。
ところがこの新しいやり方に従えば、オセアニアの人々が、西洋の文化に対抗するために「これが俺たちの伝統文化だ。」と言い出したものも、「結局ものの見方の問題ですから、誰がみてもあなた方の伝統文化に相違ない、なんてものは無いんです。」と言わざるを得ない。
これはマズいとなりました。そこで出てきたのが、「本物の伝統文化なのかパチもんの伝統文化なのかを問うよりも、大事なのは、それがいかにして彼ら自身の為に使われているかだよね。」という言い方です。ベン・フィニーも基本的にこの考え方に立っています。
しかし、吉岡さんは、敢えてこの路線に異を唱えています。
吉岡さんによれば、そうやって文化人類学者が日和った結果、文化人類学者と現地知識人の馴れ合いが生まれて、文化人類学者と現地知識人が共同で産み出した「伝統文化」が、現地の民衆とは懸け離れた所で政治利用されてるんだそうです。現地知識人というのは基本的に西洋の教育を受けた人ですから、現地の民衆の平均的なものの見方を持っていないですし、そういう人たちが納得する「伝統文化」のあり方は、必ずしも現地の民衆が納得するものではないと。
じゃあ、どういった方向性が望まれるのか?
吉岡さんは「多配列」という言い方をしています。この対義語は「単配列」だそうです。
要するに、「この文化はこうなんだよ」という決めつけを2つ以上やっていくという方向です。「現地の知識人的には、こんな感じになっている。」「現地の庶民的には、こんな感じに世界が見えている。」「世界経済という文脈におけば、こんな感じに解釈できる。」「世界史のなかでは、こんな感じになる。」というように、色々な解釈を併存させて、相互の矛盾を敢えて放置しておくわけです。
文化人類学というのは、最初は西洋の視点一本でやっていて、次に「何でもアリよ、本当のことなんて何にもナイのよ。」という無責任スーダラ戦術をやって、これが現地の人からブーイングを食らうと、今度は「何が本当なのかなんて関係ないよね」という日和見をやった。
ですけれども、実際の私たちの生活では、「何が本当なのか」というのはとても大事なことです。例えばみなさんに配偶者や恋人がいたとして、「自分たちが本当に愛し合っているかどうかなんて、どうでも良いよね。結果として毎日が楽しければ問題無いよね。」なんて話をするでしょうか? しないよね? 「本当の愛」なのかどうか、すっげー気にするでしょ? あるいはブランドものの鞄を買う時に「本物のヴィトンなのか、偽物のヴィトンなのかなんて関係無いよね。」とは絶対に言わない。私たちは「本当のことは何か」を常に気にして生きています。
としたら、「何が本当なのかなんて関係ないよね」なんてのは、詭弁でしか無いわけです。要するに「これが本当だ」と言ってしまうと、仲間内で叩かれるから、そういう事を言わないで何か別の話に論点をスリ替えるのが流行ったわけですな。自分のメンツを賭けて何事か言うというリスクを取らなくなった。
これに対して吉岡さんは、「本当のことはいっぱいあって、それは並べてみるとお互いに矛盾するんだけれど、それこそが現実の人間のありようなんだから、臆せずに沢山の『本当』について書いていこうじゃないか。」と提案するわけです。
私は、吉岡さんの提案に概ね賛成です。「本当のこと」はたった一つしか無いという前提自体が、極めて西洋的な気がします。そんな前提に立っているから、誰も「本当のこと」について話が出来なくなったんですよ。
おっと、また長くなりました。明日こそは先住民観光の話に参ります。
* ただ、ベン・フィニー自身、クック諸島の航海カヌーのデザインがパチもんくさいと同じ本の中で書いているわけですが(笑)。ベン・フィニーは、1995年の集団航海でクック諸島の大統領がことあるごとにナイノアに楯突いたのを、余程苦々しく思っていたようです