柔らかい権力の到来を待ちながら(4)

4:敢えて微笑んでみる

 さて。私の言いたいことはもうおわかりだと思う。要は、もっと巧妙にやられてはいかがかということだ。考えてもみて欲しい。目を三角にしてドアを叩いている訪問者が現れれば、誰でも警戒する。私ならインターホンで応対するに留める。しかし、手土産を手に微笑を浮かべて来意を告げる礼儀正しい訪問者ならばどうだろうか。相手が喧嘩をしに来たのではないことが判れば、ドアを開かないでもない。もっと狡猾な駆け引きを弄した方が良い。怒り、憎しみ、嘲り。そんな感情が見え隠れする言説の射程距離は知れている。それよりも、もっとしたたかに、巧妙にやった方が良いと私は思う。お前たちは人権を踏みにじっているぞ、どうしてくれると詰め寄るだけの戦略より、もっと小狡い手を考えた方が話が早いんじゃないかと私は思う 。それがソフトパワーの活用である。

 それほどに「ろう文化」や「日本手話」が素晴らしいものならば、その魅力は日本のろう者以外にも理解出来るはずなのだ 。現に私はフランス語を解さないが、フランス語による歌唱を楽しむことは出来るし、フランス文化の素晴らしさもそれなりに知っている。そして、そうした素晴らしい文化を生み出したフランス人たちへの一定の敬意を持っている。ならば、日本の「ろう文化」や「日本手話」にも、似たような状況を生み出す力はあるのではないか。「ろう文化」や「日本手話」がろう者コミュニティの範囲を超え、日本社会全体に貢献するものであると広く認められれば、今現在、日本のろうコミュニティやろう教育が抱えている問題の幾つかは、それなりにスムーズに解決するのではないか 。ろう者の言語権、つまり彼らの母語である日本手話を使って生活し、教育を受け、社会のあらゆる部分に参画する権利が、単に法律に書き込まれたり判決で認められるだけに留まらず、実際に各地のろう学校に日本手話をきちんと話せる教職員が大量に配置され、また社会生活の様々な場面で必要に応じて有能な手話通訳者が派遣されるような世の中は、ろう文化のソフトパワーの活用によってこそグイッとたぐり寄せられるのではないか 。私はそう思い続けている。

 このような意見を表明する本稿に対しては、お前は聴者だからこそ、そんなことが言えるんだろうという批判も、当然のように上がるだろう。聴者であるお前に、何がわかると。

 いや、たしかに聴覚障害という問題のみに注目すれば、私は聴覚障害に悩まされている人間ではない。だが、例えば私は専任の研究職に就いておられる方々と比較すれば、長年に渡って個人の赤字を垂れ流して研究を続けて来た「可哀想な奴」であるし、きっと今後もそうであり続けるだろう。実際、収入の少なさは私の悩みのタネなのだ。

 だが、私は論文や学会報告という形で学問という世界に自分の持っているものを贈与することを、今後も止めない。もちろん私にも社会に対しての不満はある。だが、不遇であることそれそのものは、社会への貢献 を行わずにただ社会に要求するのみの存在であることの正当性を保証しないと個人的には思っている 。だから私は、私に差し出せるものを差し出すことで、社会に参画することを選ぶ。懐を通過する貨幣の量で見れば私は決して豊かな存在ではないが、どれだけ他者に分け与えることが出来たかという勝負であれば、私にも勝ち目はまだ残っている。

注1:
法律上、権利の存在が認められるということを日本のろう文化運動の最終目的とするならば、ソフトパワー戦略の活用が不可欠とまでは言い切れない。国会で法案が通るか、権利の存在を認める判決が確定すればそれで済む。しかし実際にその権利が守られる日本社会を実現する為には、ろう者ではない日本人の多くがろう者とその社会についての知識を持ち、なおかつ彼らに共感し、彼らの権利を積極的に守ろうと考えるようになる必要があるのではないだろうか。また、そうした状況を引き寄せるに当たって、ソフトパワー戦略を敢えて排除する理由は見当たらないように思う。

注2:
ここで言う社会貢献とは、財や知識やサービスを社会の為に供出する行為と等号で結ばれる概念ではない。例えば1歳の幼児の大半はそれらのものを持ち合わせていないが、幼児が周囲に見せる笑顔は、しばしばいかなる財やサービスとも引き替えがたい価値を持つ贈与物として、幼児の周囲にある社会に手渡されることがある。これは私の考えでは、素晴らしい社会貢献である。財や知識やサービスを持ち合わせていなくとも、微笑みや愛を差し出すことは出来る。なお、文化商品が単なる商品としてだけでなく、贈与物としても同時に存在しているという議論についてはHyde 1979を参照のこと。

注3:
これは「社会貢献をしない者には人権は無い」という意味ではない。基本的人権は自然権であるという法理論に私は特に反論は無いから、ある人物に社会貢献の意志や実際の行動が付随していようがいまいが、その人物に基本的人権が備わっているという考え方にも私は反論しない。不遇であることを根拠に、社会貢献を一切行わない一方で社会に対して自らの人権の擁護を要求する人物が仮に存在したとして、その要求行動を妨害する意志も私には無い。私がここで問題としているのは、私という個人がある種の人物の基本的人権を気持ちよく保護出来るか否か、あるいは私という個人の基本的人権を誰かに気持ちよく保護してもらえるか否かという話である。あらゆる人間の基本的人権は保護されるべきであるが、それを保護する者の気分が常に良好な状態に保たれるとは限らない。

別の例で考えてみよう。接客業を生業としている者は、基本的には誰に対しても一定のレベル以上のサービスを提供する。しかし友好的であり彼/彼女の感情に細やかな配慮をしてくれる客に対しては、貨幣を媒介としたサービスの取引の枠を超えた付加的なサービスをも贈与する。この贈与は客から差し出された配慮という贈与への返礼である。

もう一度言おう。当然の前提として基本的人権は無条件に保護されるべきである。だが、無条件の保護の枠を超えたところで取り交わされる贈与関係の成立は、人権の保護/被保護という形でまずは成立した両者の結びつきを、さらに強固なものとする。ここで私が言う贈与は社会貢献と読み替えることも出来よう。忘れるべきでないのは、貨幣を媒介とした取引とは異なり、取り交わされる贈与物は使用価値・交換価値において非対称的であっても構わないという点である。ろう者がろう者以外の日本列島住民に差し出す贈与物が、その何倍もの返礼となって還ってくる可能性もある。