蝦夷の古代史

 今日は本の紹介。

 工藤雅樹『蝦夷の古代史(えみしのこだいし)』平凡社新書、2000年

 タイトル通り、古代の日本列島北方で活動していた人々の歴史をまとめた本です。エミシとかエゾという言葉が文献史料に登場してくる古墳時代ごろから、奥州平泉に藤原氏の勢力が確立するまで。

 著者によれば、エミシという言葉が出てくるのは『日本書紀』が最初なのですが、記紀に納められた歌の中には、記紀が成立した7世紀ではなく、様式的に考えると6世紀以前のものもあり、そのような歌の中にもエミシという存在が登場するのだとか。ただしこの頃のエミシは、今の関東地方くらいから北に住む人々を漠然と指していましたし、蘇我本宗家の惣領の名前がエミシだったように、特にネガティブな意味合いも無かったそうです。

 それが、奈良時代に入り大和政権が本州島北方に勢力を伸ばしていくと、それに従ってエミシと呼ばれる人々の対象も狭くなっていき、まあだいたい大和政権の勢力圏とそれより外との境界くらいから向こうをエミシというになった。また、大和政権が中国の唐に対して、朝鮮半島の権益を認めてもらうために、わざわざエミシを遣唐使と一緒に唐まで連れて行って、「日本のオオキミは偉いので、このような辺境の蛮族も慕ってくるのです」と主張したなんてエピソードもあります。

 この頃に、エミシを蛮族風の漢字で呼ぼうということになって(相手をおとしめるためにわざと悪い意味を持つ漢字を当てるというのは、近頃も品の無いウェブサイトで再流行しておりますな)、蝦夷という字を当てたのだそうです蝦夷の夷はもちろん蛮族の意味ですが、蝦のほうはエビ(蝦)のつくりを流用してエミと読む漢字を新たに考案したんじゃないかと。

 しかし、北方先住民たちも決して大和政権に一方的にやられているわけではありませんでした。彼らも大和政権と交易をして利益を得ていましたし、大和政権に協力して姓(かばね)を貰う奴も沢山いた。これを蝦夷爵といって、ナントカ公(なんとかのきみ)というのが一般的だそうです。

 もちろん戦争もやった。例えば奈良時代末期には伊治公呰麻呂 (これはるのきみあざまろ)という強力な族長が大反乱を起こして、大和政権の出城を片っ端から落としてしまうということもおこります。この乱は平安時代に入っても衰えず、結局かの坂上田村麻呂がようやく先住民の中心人物だった大墓公阿弖流為(おおばかのきみあてるい)を降服させて終息します*。

 この後も北方先住民たちは大和政権と手を結んだり反乱したりということを繰り返していくのですが、そのようなプロセスを経ながら、南方から移民してきた人々と交わったり、また大和政権によって集団で南方に移民させられたりしつつ(今の関東地方から宮崎あたりまで、35カ国に及びます)、次第に日本化していったわけですね。そして11世紀初め、前九年・後三年の役の頃には大和政権とも繋がりを持つ先住民系の大豪族によって統率されるようになります。すなわち前九年の役の中心であった安倍氏や、後三年の役の中心であった清原氏です。

 彼らの内紛に清和源氏の源頼義・義家親子が介入して前九年・後三年の役が発生し、結果として奥州藤原氏が成立。さらに源義経と頼朝の争いに巻き込まれて滅亡・・・・というように歴史は流れていきます。この頃になると、もうアタマの方に先住民系の豪族という印象は無いですよね。奥州藤原氏には京都の藤原氏の血も入ってますし、源家は清和天皇の子孫ですから。

 ですけれども、日本列島の北の方が、結構ゴタゴタしながら日本化していったこと、そして多分、現在も日本化しつつあるということ(アイヌのことです)は、憶えておいていいと思います。

 この本、はっきり言って文章が下手で読みづらいのですが、値段を考えれば悪くない。古代の日本国と北方先住民の交渉史を手軽にまとめた一冊として、読んでみるのも良いでしょう。

* 余談ですが、この時に降服したアテルイに関して田村麻呂は助命を求めたのですが、結局中央の判断でアテルイは刑死させられてしまいました。