1:ある種の「日本手話」言説に感じる疲労感
特にそれを生業としているわけではないし、生業になる可能性も殆ど無いのだが、縁あって日本のろう教育やろう者コミュニティをテーマとする研究を続けている。だから、そうしたテーマに関連する文章には基本的に目を通すようにしている。
だが、(これは自分でも意外なのだが)そういった文章を読むことは、私にとって必ずしも楽しい経験ではない。むしろ苦痛、あるいはもう少し別の表現を探すならば、疲労感の残る読書も少なくない。今日、とあるエッセイを読んで改めてこれを自覚した。
そのエッセイはろう者の妻を持つ聴者が書いたものであった。この夫婦はある時、聴者のセールスマンと会うことになったのだが、そのセールスマンは手話話者と接する経験が僅少であった為、夫婦が自動車の窓越しに会話しているのを見て、自動車の窓を開けたという話である。エッセイの書き手は内心、その行動に苦笑し、もっと手話話者についての知識が広まれば、こういったトンチンカンなマナーも無くなるだろうに・・・とまとめる。
この類の、つまり手話や手話話者についての知識を持たない人々が手話話者に接した時の行動を面白おかしく採り上げ、最後に肩をすくめてみせるというような文章は多い。少なくとも私にはそのような印象がある。あるいは、「日本手話によるろう教育」の必要性や優越性を認めるに及び腰である人々を声高に糾弾し、社会正義が未だ実現されないことに悲憤慷慨してみせる文章。
これらに共通する話形は、「自分たちは正しい道を知っているが、世の中はこの正しい道を知らない人々で充ち満ちている。そして、彼らはそれに気づいていないから、こんなトンチンカンなことばかり繰り返している。困ったものだ。」というものだ。あるコミュニティ に加わっていない者は、須く見下され、糾弾や慨嘆や嘲笑の対象とされてしまう。そういった文章が、日本のろうコミュニティに関する商業出版では、今のところ優勢なのだ。
もちろん、需要があるからこそそういった文章が書かれ、売られるということは認めなければならない。手話話者やろうコミュニティに対する無知、無理解に苛立つ人々が、そういった文章を読んで溜飲を下げる。そういったニーズは多分あるのだろう。毎年のように、私から見ると同じ内容の再話にしか思えないような文章を集めた本が出版されているということは、それらの本が少なくとも出版社に赤字をもたらしていないということを示唆する。この出版不況のおり、前述のような話形の文章群が、わずかではあっても出版人の生計維持に寄与しているわけで、そういった部分でも、これらの文章には確かに存在価値がある。誰かが生計を立てられるかどうかは、実際、とても大事なことである。
だが、これらの文章がどれほど啓蒙的な力を持ちうるかという点では、私は幾分懐疑的にならざるを得ない。何しろ、問題のコミュニティに属していない人間がこうした文章を読む時には、必ず「あなたは大事なことがわかっていない困った人物だ。それで、あなたはこれからもそうやって私たちを困らせようというのか?」という難詰を受けねばならないのだ。それで悔悛して生き方を改める読者も一定数存在するのであろうが、私のように疲労感を覚えたり、あるいはより端的に反発したりする読者も居るのではないか。
もちろん、これらの言説が一定の訴求力を維持していることは私も素直に認めている。日本手話によるろう教育を掲げた私立のろう学校「明晴学園」が2008年4月に開校に漕ぎ着けたことは記憶に新しいし、その前後には無数のマスコミがこの学校の出現がいかに画期的なことであるのかを、競うようにして取り上げていた。知識人の方面においても、(私のような歪んだ人格の持ち主はともかくとして)言語学や文化人類学、社会学の研究者から脳科学の研究者に至るまで、日本手話によるろう教育の大切さを説く意見は日々、勢いを増している。かく言う私とて、日本各地の公立ろう学校に日本手話を自在に操る教員が増えることには諸手を挙げて賛成しているし、その為に年間1000円の増税をするがどうかという話になれば、即答で諾と答えるであろう。
つまり、少なくともこれらの言説が、日本国内におけるろう者社会やろう文化への理解を推進していないということは無いのである。だがそれでもなお、私は危惧している。自らの主張の正当性を説き、社会正義の実現を訴える言説だけで、果たして充分なのであろうかと。