柔らかい権力の到来を待ちながら(蛇足)

5:では、誰に何を売っていくのか?

 ・・・・本来ならばここで本稿を終わらせても良いのであるが、では具体的には何をどうしろと言うのだというところまで書くことが不可欠だという意見を頂いたので(何故不可欠なのか私には理解出来なかったが)、少しだけその先の話、つまり「日本におけるろう文化運動のソフトパワー戦略」の方向性についても考えてみよう。

 最初に検討するのは、いかなる層を対象にしてソフトパワー戦略を展開するのかという点である。私の答えは明快だ。ありとあらゆる層、である。私の考えでは、ろう文化を日本社会が受け入れ、尊重するとは、「日本中の公立ろう学校が日本手話による教育をするようになること」とイコールではない。ろう者はろう学校で学んだ後には社会人となり、あるいは大学や専門学校に進学し、就職し、時には結婚し、子供を作り、育て、やがて死んでいく存在である。私のろう者の友人の中には、聴者の配偶者の両親から結婚への同意を得られずに義絶状態になっているという者もいる。公立ろう学校にバイリンガルろう教育部門が出来たとしても、このような問題は解決しない。ろう者は日本社会のありとあらゆる場に参画する権利を持っている。ならば、ソフトパワー戦略の対象は全ての日本列島住民である。いくら知識人のシンパを増やしたところで、1万部も売れないような本に掲載された学術論文やエッセイの類が1億2千万の日本列島住民の心を動かすことは無い。

 次に気をつけなければならないのは、ろう文化の魅力を外部に発信することと権利保障の要求をすることは、完全に分けて進めていかねばならないという点である。ソフトパワー戦略の最終的な目標を権利回復および聴者の良き隣人としての共生・協力関係の樹立に置くとしても、文化の魅力の発信という行為そのものを権利回復要求の道具とすべきではないのだ。何故ならば、文化の魅力の発信形態として最も一般的なのは、当該の文化を背景とした商品の開発と販売という形であるが(例えば衣料やポピュラー音楽、映画、文学など)、そうした商品は市場においてまさにグローバルな競争を勝ち抜いて「お買い上げいただく」必要があるわけで、説教がましかったり恨みがましかったりする仕立ての商品が、売れることだけを目標に開発された商品との競争に勝てる可能性は低いからである。現にハワイ先住民の開発してきた文化商品の中に、ハワイ先住民の言語権や自治権付与の主張をビルトインしたものは、管見の限りでは見当たらない。

 その次に指摘したいのは、周縁的な存在やコミュニティの外部の存在を排除しない形で商品開発や流通戦略を構築することの有利さである。フラを例にすると、フラは本来ポリネシア人の芸能・神事であったが、現在では白人や日本人が主宰するハラウ(フラの教習・実践共同体)もいくらでもあるし、そういった周縁的な人々の存在を許容したことで、フラの愛好者の人口はこれほどまでに増えたのである。もしもハワイ人のクム(フラの宗匠)以外にハラウを主宰する権利が与えられていないとしたら、日本でこれほどまでにフラが普及することはあり得なかったであろう。結城幸司の活動にしても、例えば知床での先住民ツーリズム事業は和人である藤崎達也や小野有五との協力によって進められているし、結城とともにコシャマイン(中世アイヌの英雄)慰霊祭の運営を担っているのは、横浜出身の和人である「造形工房むかご」の平田篤史(そのアイヌ文化への愛情と造詣の深さは驚嘆に値する)だ。そういった意味では、難聴者であった高村真理子(故人・ワイルドザッパーズなど海外のろう者の芸術家たちの日本への招聘を積極的に行った)の活動や、CODA(Children of Deaf Adults:ろう者の親に育てられた聴者)である武井誠(手話ロックバンド「こころおと」代表)の活動は注目に値する。

 そして最も重要なのは、民族アイデンティティの根源の管理をきちんと行うことである。ハワイ先住民にしろアイヌにしろ、ソフトパワー戦略を進める上でも、この「民族アイデンティティの根源」の尊厳だけは厳重に管理している。本当に大切な場における航海カヌーやフラの扱われ方 は、私のような部外者にはとうてい立ち入れないような厳粛さを伴っているし、アイヌたちが行うカムイノミ(カムイに祈りを捧げる儀式)も同様である。

 だが、そうした「民族アイデンティティの根源」の尊厳管理とソフトパワー戦略は、実は対立しない。ハワイの航海カヌー乗りたちは、行く先々で、自分たちにとって伝統的航海術や、それを復活させてくれたホクレアというFRPの双胴船がいかに大切なものであり、いかにそれらを誇りとしているかを、丁寧に語る。彼らの語る物語を聞き、彼らがホクレアに向けるまなざしを目にすれば、誰もがこの船の神聖さを感得する。同時に、あの小さな船に生命を預けて4000キロもの外洋航海を成し遂げ、ハワイ諸島に根を下ろした彼らの祖先の勇気や知恵や生命力に人々は感嘆する。その偉大な航海者たちの末裔の文化への敬意が芽生える。結城幸司も、現代のアイヌにとって最も大切なのは、カムイ(神)とアイヌ(人)の関係を基礎にしたアイヌ民族の民族宗教をきちんと守っていくことであり、逆に言えばこの基本さえしっかりしているならば、周辺的な部分ではあまりアイヌ文化の真正性に拘る必要も無いのではないかと語っている。

 日本手話やろう文化についてはどうだろうか。正直に言おう。私自身は、このエッセイの冒頭で触れたような種類の文章に啓蒙されたことが無い。全く無い(むしろ疲労感や嫌悪感を感じる)。だが、実際にろう者たちが集まっている場に出向き、彼らの話を聞き、彼らが日本手話という言語をいかに大切にしているかを目の当たりにした時には、大いに心動かされた。高村真理子や朝倉まみなど、ろう文化という観点から見れば周縁的な人々が、それでもなお手話の大切さの啓蒙や、手話音楽の可能性の追求に打ち込んでいる姿にも胸が熱くなった。高木理叶の手話ダンスや「こころおと」のヤスの手話ヴォーカルは、世界のどこに出しても喝采を浴びるものだと思っている。そして彼らが私に見せてくれた笑顔は、あの世まで私が持って行ける数少ない宝物の一つだとも考えている。だから、彼らが愛している手話に対し、ハワイ先住民やアイヌの文化へのそれと同じくらいの敬意を持っている。

 これはあくまでも部外者である私個人の考えに過ぎないのだが、ソフトパワー戦略を展開する上で最も効果的なのは、コミュニティの中で最も大切にされているもの、最も価値あるもの、最も神聖なものをこそ、贈与物として真っ先に差し出すことではないだろうか。すなわち日本手話とろう学校を、ろう者だけのものとせずに 広く開放していくことこそ、実は最善の戦略なのではないか。それは例えば日本手話を会話や表現行為の素材としてろう者コミュニティの外部に積極的に提供していくことであり、ろう学校における同時法や中間手話の存在を容認すること なのかもしれない。各地のろう学校を単なる教育の場から一歩進めて、ろう者の芸術や日本手話による芸術の諸実践の為のアート・センターを併置するのも魅力的だ。そこに行けば誰もがろう者の芸術に触れることが出来、また手話による芸術の技法を学べるとしたら? そのアート・センターの活動の充実度 によっては、「たまたま近所にあるろう学校」ではなく、「地域の宝としてのろう学校兼デフ&サインアート・センター」として認知されるのではないか。

 もちろん、文化が消費文化として社会に広がっていく過程でキッチュなものは無数に生まれてくるだろう。ハワイ先住民文化の消費文化化とて、最初は白人資本による上澄みの剽窃と搾取から始まったものであるし、日本においても文法という日本手話の最も大切な部分を見落とした手話歌 であるとか、何とも奇妙な手話を使う主人公が活躍するテレビドラマ など、キッチュなものは少なからず存在している。たしかにこれらキッチュなものを市場から排除することは難しい。不可能であると言っても良いだろう。だが、文化の真正性という概念をテコとすることで、その文化を最初に生み出した社会集団が、「どれがキッチュで、どれが本物なのか」を市場に示すことは可能である 。

(この項終わり)