燃える男と言えば藤崎達也さんなのですが、その藤崎さんがわざわざメールで「久しぶりにすごくブログを書きたくなったんで、今から書きます!」と予告してくださった記事があります。
これ。
私、読んだ瞬間からただごとではないと感じました。久しぶりに知的興奮の極みを味わわせていただきました。ぶっ飛んだ。
このごく短い文章のどこがそんなに凄いのか。順を追ってご説明しましょう。
問題は「先住民の文化復興」という所にあります。あるいはこう言い換えても良い。「マイノリティがそのマイノリティ独特の生活文化の存在に気付き、その固有性と価値を外部に発信する運動」。そういうもの。ご存じ航海カヌー文化の復興運動にもこういった側面が多分にある。ホクレアが日本に来るのだってこれですからね。ハワイ先住民というマイノリティが祖先の文化である航海カヌー文化を再建し、それを世界に向けて発信している。
ですが、藤崎さんによれば、その道筋は外部から思うほど単純明快ではないのです。言われてみれば私にも心当たりが大ありなのですが、文化復興を試みるマイノリティ集団の内部にも世代間の葛藤があるんですよ。
まず第一世代。これは殆どゼロの状態から自分たちの文化を掘り起こし、発見し、曖昧模糊としたそれらに輪郭を与えて行くことになります。それは初手として必要な作業です。ナイノア・トンプソン氏もこれに当たりますね。
しかし、時が経つにつれて次の世代が育って来る。この世代は物心ついた時に既に「マイノリティとしてのアイデンティティ」が存在していた世代です。お前はこのマイノリティの文化を受け継ぐ者にならねばならない、と言われて育つ。ところがその一方で、この世代はゼロからマイノリティの文化を再構成する経験を持ちませんから、「自分たちの文化がある」ということは自明の前提になっている。「これが俺たちの文化だ」というものが彼らには最初から見えている。
その一方で、いくらマイノリティ集団といえども外部のより強大な社会、その文化と交流せざるを得ませんから、彼らは外部の文化をも取り込んで、「マイノリティの文化」を変質させていく。
ここまでは良いんです。ここまでは従来のマイノリティ研究でも判っていたことでした。藤崎さんが凄いのは、この先です。
藤崎さんは、こうしたプロセスで必然的に発生する葛藤に注目します。第二世代以降が、上の世代と外部の文化の間で板挟みになりながら葛藤し、その葛藤の中から新しいものを生み出していくプロセス。アイヌの第二世代に寄り添って活動している藤崎さんは、「こういう葛藤のプロセスそのものも、マイノリティの文化として捉えてはどうか」と言う。葛藤はマイノリティ集団の生活文化の一部である。そして、それは忌避されるべきもの、本来あってはならないもの、出来るだけ速やかに消滅させるべきものなのではなく、大きな可能性を孕んだものである。だから、第二世代以降の葛藤は寿ぐべきものなのではないか。その「第二世代以降の葛藤」そのものを支援し、見守る回路を上位社会の内部に開削出来ないか。
と提言するわけです。
こんな発想はちょっと初めて見ましたよ。これまで研究者がやってきたことは、事実の収集とその整理分析。そこまでだったと思います。「マイノリティ集団の第二世代以降は葛藤する」。これは沢山の事例研究がある。掃いて捨てても惜しくないくらいにある。「それは彼らの置かれた状況から来る必然である」「こうした自己同一性の矛盾が彼らの宿命である」それももう読んだ。そして、こういった事例を描く研究者の筆跡は常に「困ったもんだねえ、でもしょうがないねえ、この先どうなるのかねえ」だった。
藤崎さんはそれを越えてしまいました。「良いじゃないの、これだって彼らマイノリティの文化だと思うよ。肯定的に捉えて見守っていこうよ」という、より積極的で肯定的で建設的な姿勢です。現場の人、実践の人ならではの発想だと思います。
藤崎さんねえ、これは本書くべきですよ。