柔らかい権力の到来を待ちながら(2)

2:したたかなるハワイ先住民たち

 ここで私が思い出すのは 、何人かの先住民族 の友人たちである。こちらも私の生業ではないのだが、やはり縁あって私はここ数年間、ハワイ先住民やアイヌと関わってきた。そのハワイ先住民もアイヌも1970年代には激しい民族運動を展開していた。ハワイでは「ハワイアン・ルネッサンス」と呼ばれる伝統文化復興運動が始まり、全島がアメリカ軍の演習地となっていたカホオラウェ島の返還運動や、民族のルーツである伝統的船舶(航海カヌー)や伝統的推測航法術の復元運動が盛り上がりを見せた 。また北海道でも結城庄司によるアイヌ解放同盟の設立と、シャクシャイン像の台座削り取り事件 や北海道大学教官 への講義事件などが知られている。

 だが、私が直接関わっている限りにおいて言えば、現在のハワイやアイヌのコミュニティにおいて、この時代のようにまなじりを決して社会の非を糾弾するような活動は、一般的ではないように思う。例えば私は2007年に日本までの航海を行ったハワイの航海カヌー「ホクレア」の活動に関わっている人々と折りに触れて話をするのだが、現在の彼らは基本的に争いを好まない。前述のカホオラウェ島の回復運動にも取り組んでいる人物は、微笑を浮かべながらこう語った。

「彼ら(米軍)は嘘をついたんだ。彼らは爆弾を処理していかなかった。だから、もしも私がテロリストになろうとすれば、苦労して爆弾を作る必要なんか無いんだよ。そこら中に落ちているんだからね。」

 また、ホクレアが1976年に行った最初のハワイ・タヒチ間航海 に参加したあるクルーは、やはり微笑を浮かべながらこんな話をしてくれた。

「あの航海じゃあ、俺たちハワイ先住民のクルーの態度が悪かったって話ばかり流れているが、なあ、あの時、白人たちは上等の雨具を持ち込んでいたってのに、俺たちはビニールのゴミ袋を被って雨露をしのいでたんだぜ。酷いと思わないか?」

 確かにそれは酷い話である。実際、こうしたハワイ先住民と白人間の相互不信は1976年に航海の後に先鋭化し、ホクレアは一旦、ハワイ先住民だけの船となったのである。白人たちはこの船から手を引いたのだ。そして1978年、今度はハワイ先住民のクルーだけで再びハワイ・タヒチ間の航海が計画され、実行に移された。
 しかし、これは悲劇的な結果を生んだ。ホクレアはホノルル港を出航後間もなく、荒れ狂う海の真っ直中で転覆する。ハワイ先住民コミュニティの英雄の一人、名うてのビッグウェーヴ・ライダー でありまたオアフ島北岸のライフガード であったエディ・アイカウは、船の危機を知らせる為に荒れ狂う海へとサーフボードで漕ぎ出し、そのまま行方不明となってしまう 。こうしてハワイ先住民コミュニティは、巨大なアイコンを失ってしまったのである。ホクレアの存在そのものも危機に瀕したのであるが、この危機はハワイ先住民コミュニティのもう一人の若き英雄、ナイノア・トンプソンを中心としたグループの活動によって回避され、廃船という最悪の事態は免れることが出来た。
 興味深いのは、彼、トンプソンによる戦略だ。私も何度か話をしたことがあるが、彼は今やハワイ社会でも最も著名な人物の一人であるにも関わらず(日本で言うならば、その存在感は中田英寿のそれに最も近いように思う)、極めて謙虚で控えめな人物である。また彼は極めて優れた知性を持っている戦略的な思考に長けた人物でもある。トンプソンらは、一旦「ハワイ先住民だけのもの」となったホクレアを再びハワイ社会全体のものと位置づけ、白人や日系人などハワイ先住民以外の人間も広くプロジェクトに受け入れたのである。例えば彼がウェイファインダー として初めてホクレアに搭乗した1980年のハワイ・タヒチ間往復航海では、ホクレアの船長や伴走船イシュカの船長を務めたのはいずれも白人であった。

 結果を先に言えば、その後ホクレアの活動はハワイ社会に広く受け入れられ、これまでにアオテアロア(マオリ語でニュー・ジーランドのこと)、ラパ・ヌイ(いわゆるイースター島のこと)、クック諸島、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦、パラオ、日本などへの航海を成功させている。そしてこれらの航海には、ハワイ先住民や白人以外にも、マオリやクック諸島、ミクロネシア連邦、日本、北米先住民の一つであるクリンギット族など、様々な民族的出自を持つ人々が参加し、ホクレアの航海で学んだものをそれぞれの故郷に持ち帰って新たな活動を展開しているのだ。ここで注目すべきなのは、ハワイ先住民がホクレアを囲い込んでしまうのではなく、逆にホクレアをあらゆる人間に開放することで、結果としてハワイ先住民の伝統文化への敬意を勝ち取っているという現象である。すなわち彼らはジョセフ・ナイの言う「ソフトパワー」を最大限利用していると言える。

 「ソフトパワー」とは、ナイによれば権力の第三のありようとされる。例えばあなたが誰かに、本来その人物が得意ではない言語を使わせたいとする。このように自分が望む行動を他人に取らせる力を権力と呼ぶ。最初に考えられる手段は、暴力などを利用して相手にそれを強制するというやり方だ。「クリンゴン語を使わないのなら竹刀でボコボコにするぞ」と脅迫すれば、相手は嫌々であってもそれに従うだろう。
 あるいは、「おまえがゼントラン語を使うのであれば、報酬として以下の金額を支払う」という手もある。札束で頭をナデナデしてあげる戦略である。だが、買収には先立つものが必要だし、少数派が多数派を買収するのは、不可能ではないにせよ(非常に有名な例が幾つかあるが、敢えて具体名は書かない)、よほど裕福なコミュニティに限られるだろう。

 そこで出てくるのが「ソフトパワー」である。自らの持つ文化の魅力を相手に教え込むことで、相手が自発的に自分たちを手助けしてくれるよう仕向けるのだ。フラ、ハワイアン音楽、ロミロミ(ハワイ式マッサージ)、ハワイアン・キルト、サーフィン、カヌー。これらは皆、ハワイ発の消費文化であると同時に、ハワイ先住民コミュニティによるソフトパワー戦略の重要なアイテムでもある。彼らは、自らの文化のうち普遍的な価値を持ちうるものを選んで外部に発信し、自らの文化を愛好する人々を外部に増やしているのである。
もちろん、その過程で彼らの伝統文化は変質する。ハワイ先住民社会には女性差別もあったし、凄惨な殺し合いもあったし、大規模な環境破壊もやった。だが、現在のハワイ文化の表象には、そういった負の要素は見られない。現代のハワイはあくまでも自然を愛するアロハ・スピリットの島々だ。だが、それは決して批判されるべきことでは無いと私は思う。大事なのは「みんなで幸せになる」ということだ。「身内」と「よそ者」の間に線を引き、「身内」が不当に収奪されている権利や富を「よそ者」から奪い返すことを目指す・・・というような世界観は、遅かれ早かれ行き詰まるのではないかという予感がある(行き詰まらなければそれはそれで結構な話だ)。なにしろ「身内」は権利や富を「不当に収奪」されている少数派なのだから、ハードな権力闘争で勝負すれば100%負けるだろうし、買収をかけようにも原資が足りない。大切なのは、相手を喜ばせてなおかつ自分たちもハッピーになれるという、姑息な手を見つけ出すことだ。

 だからハワイ先住民たちは「ハワイ先住民以外はフラに首をつっこむな」「ハワイ先住民以外はホクレアに乗るな」と青筋を立てない。「お前がやっているそれは、我々から見れば到底フラなどと言える代物ではない。だからフラを名乗るな。」などとネジ込まない。あくまでも間口は広くとる。誰でもフラや航海カヌーの世界を学ぶことが出来るし、また、本物の情熱と礼節を持っている人間に対しては、その文化の神髄、奥の奥までも開放する。「お前は部外者だから遠慮しろ」などとは彼らは言わない。その代わりに彼らは言う。

「ハワイは世界中から様々な文化が集まり、融合している土地です。我々は文化を融合させるということに長けています。だから日本の皆さんもハワイに来てハワイのそういった長所を学び、それを日本に持ち帰って生かしてください。」

 これは2007年に横浜港で開催されたシンポジウムの席上、ホクレアの船長の一人であるチャド・バイバイヤンが行った発言である。ここには二つの含意がある。すなわち「我々は部外者を友好的に受け入れる集団である」「これは我々の長所である」というもので、実にこれはハワイ文化のセールスマンとしても完璧な発言である。

 もちろん、ハワイ先住民もまた彼ら自身の権利回復運動の途上にある。ハワイ先住民に北米先住民族と同等の自治権を付与する、通称「アカカ法案」は何度も連邦議会で廃案にされているし、ハワイ先住民の子弟のみを受け入れることで知られる名門校「カメハメハ・スクールズ」は先年以来、こうした方針が人種差別を禁止する憲法に違反しているとして訴えられ、法廷闘争を強いられている。

 しかしながら、彼らは既に「自分たちがいかに不遇であり、収奪され、抑圧されているか」を語り続けるという戦略を放棄している。むしろ自らの伝統文化を敢えて「観光客に消費される為の文化」とし、ハワイ社会全体の「飯のタネ」に差し出すことで、WIN-WINの関係を創り出そうと試みているのだ 。

 それでは、そういうハワイ先住民のソフトパワー戦略は成功しているのか? 私見では、今のところ大成功と言いうるのではないかと思う。例えば前述のアカカ法案は2000年の法案提出以来、主に共和党の反対によって連邦議会の通過を阻まれてきたが 、2002年に第6代ハワイ州知事に就任したリンダ・リングルは、共和党出身であるにも拘わらずアカカ法案への支持を公にしている。またリングルはカメハメハ・スクールズの裁判 に関して2006年2月に第9次巡回裁判所が当初の白人少年側勝訴の判断を破棄して判断保留とした際にも、「私はカメハメハ・スクールズの全面勝訴への期待を捨てていない。カメハメハ・スクールズの入学規定が維持されることは、ハワイ州および全てのハワイ市民にとって、極めて重要なことなのだ。」とコメントした 。

 ちなみに、この翌年にハワイ州は減少傾向にある日本からの観光客のハワイへの興味を引きつける為、電通と協力して「ディスカヴァー・アロハ」と名付けられたキャンペーンを行ったが、その最大の目玉が、春から初夏にかけて行われたホクレアの日本航海であった 。リングル知事が個人的にアカカ法案やカメハメハ・スクールズをどう思っていようが、州知事としてアカカ法案に反対しカメハメハ・スクールズと敵対する選択肢は、もとより与えられていなかったのだ。何故ならば、それはフラや航海カヌーやハワイ語(「アロハ」はハワイ語である)という、ハワイ先住民がその真正性を管理している観光資源を手放すことと同義だからである。

(続き)
http://blogs.yahoo.co.jp/hokulea2006/56426156.html