柔らかい権力の到来を待ちながら(3)

3:結城幸司の挑戦

 さて、チャド船長がこうした話をしてくれたシンポジウムには、現在、北海道でアイヌ文化復興活動に活発に取り組み続けている、とある人物も顔を出していた。名を結城幸司という。前出の結城庄司の息子である。

 結城幸司はホクレアの実践を高く評価し、同じく先住民族として権利回復運動や文化復興運動に取り組む自分たちにとっては、憧れの存在であると語る。だから彼は、父である庄司が行ったような徹底対決路線 は採らない。2008年7月、結城幸司は事務局長として北海道の二風谷と札幌で「先住民族サミット」を開催したが、その先住民族サミットに際して彼はこんなメッセージを発している。

「いつまで 経っても何か埋まっていかない、アイヌと、アイヌの権利と北海道の問題、ガバメントとの問題をどうしたらいいんだろうとよく考えています。いつも 「足りない、足りない」って僕らはたぶん訴えていると思います。人権を採択してくれ、アイヌにはこれだけ足りない、物事が進んでいかない、いろんなイオル の問題や国連の権利の問題 などが浮き上がったとしても、果たしてアイヌの中で少しは盛り上がりがあったとしても、一般の人達、特に北海道の人達が本当にこの権利を本当に喜んでくれているんだろうか、この権利を本当に理解して僕達のことを受け入れてくれているのか、そういうことが常に僕の頭の中にあります。
(中略)
でも多くの北海道人が本当にアイヌのことを理解しているかというと、そうではないと思います。というのも、僕が様々な学校に行ってアイヌの歴史やアイヌのことを話しても、ほとんどの子供達が理解を示しません。自分達の大地の問題なのに、自分達のとなりの文化なのにそこに興味がない、と正直に言えばそういう方向に行っています。果たして、アイヌがこれから色々な権利を得て、この北海道で共に生きる文化としてあるのに、これで本当の環境が整ったと言えるでしょうか。 僕は、言えないと思います。
(中略)
もしかしたら、自分達が提示することで、自分達が貢献することで、自分達の足りない物が埋まっていくのではないか、そんな事も考えています。 」

 結城幸司の問題意識もまた、ソフトパワーの活用という方向に向かっている。彼は従来のアイヌの権利回復運動が「不当に収奪されたものの奪還」という図式に常に帰着していたことと、そうした図式で語り続けることの限界を見抜いており、仮にそうした運動の成果としてアイヌの権利回復が漸進的に達成されていったとしても、同じ島に暮らす隣人である和人たちがそれを一緒に喜んでくれるとは思えないと指摘しているのだ。その背景にあるのは、和人社会におけるアイヌ問題への無知、無関心であるとも。

 誤解を避ける為にはっきりさせておくが、結城幸司は今日においてもアイヌ差別に対する異議申し立てが重要であることに変わりはないという立場にある。現に、先住民族サミット2008アイヌモシリにおいて作成された「日本政府への提言文」には、アイヌ民族の言語権や自己決定権、自然資源利用権などを速やかに回復することを促す文言があるし、アイヌ語を日本国の公用語とすることも提案している。言語権の保障を求めている点は、日本のろう文化運動の近年の言語権戦略 と相通ずるものがあるし、自然資源利用権の保障は、ろう者がろう文化を保持する上でろう学校の存在が不可欠であるのと同様、アイヌ民族がアイヌ文化を伝承してゆく上で不可欠なものである 。

 だが、彼はこんな話もしてくれた。今、日本で一番アイヌという存在に対する拒否感を持っているのは北海道の人たちであると。それは何故かといえば、これまであまりにもアイヌ差別に対する異議申し立てばかりやりすぎたからではないかと。そこで、先ほど引用した文章へと繋がってくるのである。アイヌの権利回復が法律や制度の上で達成されたとしても、何故アイヌのそのような権利が回復される必要があったのかを同じアイヌモシリ=北海道島に住む隣人たちがきちんと理解し、それを祝福してくれないとしたら、それはアイヌの権利回復運動の真の成功と言えるのだろうかと。

 では、どうしたら良いのか。結城幸司が選んだのは、ハワイ先住民たちと同じ戦略である。アイヌ文化を和人の社会に、更に言えば全世界に向けて贈与するのである。贈り物を差し出すことによって、アイヌへの理解と共感を育てていくのだ。だから彼は洞爺湖サミットに合わせて「先住民族サミット」を企画した。その「先住民族サミット」がまとめた「二風谷宣言」において、先住民族の代表たちは、自分たちは単に踏みにじられ、奪われただけの哀しい存在ではなく、人類全体の財産となりうる叡智を持つ存在でもあると主張している。現在世界が直面している環境問題を解決する一助となりうる、祖先から受け継いだ叡智を世界の先住民族は持っているし、それを国際社会に提供する用意もあると。また、結城自身も常に「アイヌ文化には、人と自然の関係について語ったメタファーが豊かに伝えられている。これから日本が環境教育を進めていく上で、アイヌ文化が持つこれらのコンテンツは必ず貢献出来る」と力説している。

 ただ、それだけではアイヌ文化の魅力を和人社会に広範に伝えていくことは難しい。ハワイ先住民の文化は映画やポピュラー音楽、本、カジュアル衣料、美術工芸品、アウトドア・アクティヴィティ、土産物、食品など、消費社会のありとあらゆる分野に枝を張り、根を広げているからこそ強い。結城幸司もまた、アイヌ文化を背景としたポピュラー文化の商品開発の重要性を痛感しており、過去のアイヌ文化の保存と維持だけに取り組む時代ではないと指摘している(結城, 2008)。そこで彼と私が会うたびに話題に上るのが、スパイク・リーの映画である。スパイク・リーはアフリカン・アメリカンの映画監督として、同じアフリカン・アメリカンの姿を「トホホな部分(これは私と結城が実際に会話の中で使っている表現だ)」も含めて描く。そこに結城は、同胞への愛情溢れるまなざしを見るのだという。そして、いつかアイヌの中からスパイク・リーのような表現者が出現してくることを期待しているとも。アイヌを妙に持ち上げたり、神秘的な存在として表象するのではなく、アイヌの良い面もトホホな面も包み隠さずに提示しつつ、エンターテインメントとして幅広い支持を得られるような作品を作ることが出来れば、それがアイヌ社会と和人社会の間を繋ぐ理想的な文化商品になるのではないかというのだ。

(続き)
http://blogs.yahoo.co.jp/hokulea2006/56426236.html