Exile on main street

 もう少しだけ先住民観光の話をします。

 あまり腕っ節が強くない少数民族が資本主義のご時世をシノイでいくための、有効なシノギとして、先住民観光というものがある。前の記事では、そういう話もありましたね。

 そういった時に、どういう「売り出し方」をするのが良いかという話になって、珍獣ショーはもう止めようという流れになった。

 その代わりに、古いものも新しいものもひっくるめた、先住民の今現在のリアリティを「本当のもの」として見せていこうという提案が出た。

 じゃあ、それは具体的にはどういった形を取れば良いのか?

 私が思いだしたのは、「斎場御獄(せいふぁーうたき)」です。

 以前に沖縄本島に行った時に、「斎場御獄」という、琉球王朝の建国神話に深く関わる聖域を訪れた事があるのですが、沖縄人がそういった場所にどういった想いをもっているのか、私にはよくわからないんですよ。実際に私が行った時には、斎場御獄の拝礼所に、いかにもローカルな顔つきの若者が二人ひざまずいて、ずっと祈りを捧げていたのですが、私はただ遠巻きにそれを眺めるだけでした。

 その時に私が抱いた感懐を一言で表せば「ここは異民族の聖地なんだな」という事です。

 沖縄人は本州人である私にとっては異民族ですよ。だから、斎場御獄の持つ「ホンモノ感」はよくわかったけど、一方で、越えがたい溝のようなものも強く感じられました。というのも、斎場御獄は言ってみれば山のなかの岩の裂け目に築かれた祭壇でしかないので、それ自体がどういった歴史を経てきたのかとか、沖縄人がどういった意味づけをしているのかとか、推理する手がかりが極端に少ないんです。

 これが例えば西洋のキリスト教の教会なら、誰に献堂されているとか、この聖遺物は何だとか、手がかりが沢山ありますから、大まかな所は推察出来る。日本のお寺や神社だって、縁起由来の説明があるから、とっかかりに出来る。

 一方、斎場御獄に限らず、太平洋の島々の生活文化ってのは、そもそも書記言語が無かったり、長い間残るような耐候性の高いモノがあまり無かったりで、予備知識が無いままに観光客がやって来ると、何が面白いんだかさっぱりわからんという事になりがちな気がします。

 単なるローカルの生活の場であれば、それは別に構わないですよ。でも、先住民観光という形で、ローカルの生活文化を観光資源にもしようという時に、それは売り出しづらいです。
 
 それで、昨日トラックバックした藤崎達也さんのウェブログに、こんな一文がありました。

「SIPETRUでは5月、他のアイヌ民族のグループと共に環境省やIUCNなどに対して、知床世界遺産管理におけるアイヌ民族の関与の重要性を訴える意見書を提出しており、IUCNの評価書はそれらの意見書を反映したかたちとなりました。さらにSIPETRUの調査によると知床には「チャシ」と呼ばれる先住民族の遺跡が多数現存しており、樺太アイヌや北海道アイヌといったいくつかの民族が、それらを聖地のように語り継いでいることも明らかとなってきております。

(中略)

7月3日(日)
聖地巡礼~アイヌ民族と歩くモニターツアー

~先住民族の遺跡「チャシ」を中心にアイヌ民族のガイドと一緒に森歩き

■場所:シレトコの森  (集合場所:ウトロ温泉・酋長の家)」

 「チャシ」というのはどうやら北海道の先住民たちが造った砦の跡らしいのですが、それが現代を生きる先住民たちの末裔にとっては聖地、聖なる場所という意味合いを持ってきているようですね。本州人である私には、「斎場御獄」同様、彼らが「チャシ」にどういった想いをもっているのかよくわかりません。ですが、こうやってローカルの方がガイドとして付いてくれるとなれば、話は違ってくると思うんですね。

 やり方次第では、わかりやすいモノに頼らずとも観光客のイマジネーションを膨らませる事が出来る。モノではなく、語りと場所によるイマジネーション喚起です。というか、マチュピチュとか万里の長城みたいにわかりやすい建造物が残っていない所、いわゆる自然遺産を使って先住民観光やエコ・ツーリズムをやろうとしたら、ガイドがイマジネーションの触媒になるしか無いと思うんです。

 言い換えれば、先住民観光やエコ・ツーリズムではガイドの語りの能力が極めて重要になってくるという事です。こういった場では、ガイドは話芸の達人でもなければならないでしょう。

 私個人の考えですが、現在の日本のバスガイドのようなレベルでは、「誰が来ても楽しめる」語りは出来ないと思います。バスガイドってローカルじゃないですしね。ローカルの方が、ローカル自身の歴史や生活の中から「ホンモノ」の言葉を研ぎ出して、鍛え上げなければいけないんじゃないかな、と。

 そこでもう一度私が思い出すのが、山口智子さんの『反省文:ハワイ』なんですよ。あの本の中で、山口さんはローカルの方々に意を決して会いに行くのですが、訪れた先のどこでも圧倒的に深く重い言葉を聞かされて、山口さんは居住まいを正すわけです。例えば故クレイ・バートルマン*は、山口さんにこう言いました。

「我々は最初に、ある取り決めをしたんだ。それは、学んだことは独占せず、皆で共有しようということだ。なぜなら、今まで多くの知識が、伝承されずに滅んでいったからね。ハワイ人に限らず、学ぶ意欲に満ちた多くの人々と、知識は共有してゆくべきだ。」

 ホンモノの現役の航海カヌー、タヒチやサタワル島まで実際に行って来たマカリイ号を前にして、そのリーダーにこんな事を言われれば、誰だってノックアウトされますよ。この言葉は無茶苦茶重い。重いのだけれど、それは旅人を批判するような言葉ではなく、むしろ私たちに希望のようなものを与えてくれる言葉です。それにクレイ・バートルマンは、マカリイ号は原理的には全ての人間に開かれていると言っている(もちろん、そのグラスファイバーの船体が背負っている航海カヌーの民の歴史や誇り、希望に敬意を払わない者は追い返されると思いますが)。これは自分たちの為のものであって君の為のものじゃないとは言わない。

 これもまた、大事な点だと思うのです。

 観光というのは、原理上必ず異文化が接触する場です。観光という場で異文化が接触する時に、迎える側が「これはあなたたちには関係無いものです」と言ってしまっては、コミュニケーションは頓挫します。

 私は、一流の観光資源というのは、ある種、普遍的な価値を持っていると思います。誰もが感動し、誰もがそこから何かを得て帰る事が出来る。つまり、誰に対しても開かれている。ということは、ガイドが語るべき言葉は、基本的に「この(観光資源の)価値はあなたたちに対しても開かれている。」というものであるべきではないでしょうか。
 
 先住民観光やエコ・ツーリズムのガイドが目指すべきは、こういった言葉の達人になることなのかもしれません。

 そしてまた、先住民の伝統文化が誰に対しても開かれていると考えた時、Ryuさんのように、日本からアオテアロアに渡ってそこでプロのガイドをしているというような方の存在が深い意味を持つように思います。そういった方は、(外来者という意味での)ツーリストでもありローカルでもあります。そのような方がローカルの価値をその方なりに理解し、自分のルーツにそれを繋げて「良いもの」を産み出していれば、それこそが、先住民の伝統文化が誰に対しても開かれている事の動かぬ証拠になるわけですからね。

* クレイ・バートルマンさんは昨年1月に亡くなられましたが、今度は、やはりマカリイ・プロジェクトに深く関わっておられるタイガー・エスペリさんが病に倒れられたようです。一日も早い回復を心よりお祈り致します。