異文化理解って何さ

 たびたびこのウェブログで採り上げている「総合的な学習」ですが、これをスタートしたとき、文部省は「例えば。」と断った上で、次のような内容を示しました。

        国際理解 環境 情報 福祉 健康

 さて、このうち気になるのが、「国際理解」です。学習デザインの中では「異文化理解」なんて言い方をされる場合もありますが、ともかく別の国や別の文化圏の人々を理解しよう、させようというコンセプト。ホクレア号や航海カヌー文化復興運動を「総合的な学習」で採り上げてもらうとしたら、きっと出てくるはずのコンセプト。

 しかし、他国や異文化を「理解する」とは、一体どういう事なのでしょうか?

 ある国についての情報、ある文化圏についての情報を全て獲得するなどという事は不可能です。そもそも自分の国についてだって知らない事のほうが遙かに多いですからね。にもかかわらず、私たちは(最近、アメリカ合衆国民の方から、このウェブログをたまに読んでいますというメールをいただきました。このウェブログがきっかけになり、ご家族でホクレア号を見に行かれたそうです。だから「私たち」と書いて日本国民を指すという書き方はもう使えません・・・・)、例えば日本人なら日本のことはまあ理解していると感じているし、他の国のことはどうも理解できないなあと感じる。

 ということは、少なくとも「全部知っている」から理解したとか、「全部知らない」から理解していないというお話ではないですね。

 しかも、日本といってもその国土は広く(フランスやドイツなみ)、かつ広い範囲に分散しているので、ある地方から別の地方に行けば、生活文化も言葉も違って戸惑うことになる。実は日本を理解しているなんて錯覚だったことに気づかされてしまう。私なんか「2ちゃんねる」が猛威をふるうまで、在日朝鮮人差別や部落差別なんてものが現代に残っているって知らなかったですもん。でも関ヶ原の西に行けば、そういうものはいまだに根強く残っているらしい(格好悪~い)。

 このように考えてくると、ある国やある文化圏を理解するというのは現実には不可能で、仮にそういう物言いが出てくるとしたら、それは概ね「気のせい」なんじゃないのか、と思わざるを得ません。としたら、国際理解教育とか異文化理解教育というのは、不可能なことを目標として設定する、ちょっとマヌケな実践ということになるんでしょうか? そうだとしたら、いささか空しいですね。

 でもですよ。自分が本当に「わかっている」事って、実際のところ、どれほどあるんでしょうかね? みなさんもたまには体調が悪くなりますよね。頭が痛い。胃が痛い。咳が止まらない。微熱が続く。風邪かと思っていたら実は脳腫瘍だったり胃ガンだったり肺ガンだったり白血病だったりする(不吉なことばかり書いて申し訳ない)。これはあくまでも喩えですが、結局私たちは、自分の体のことだって、実はあんまりわかっていないんじゃないですか?
 
 私はある時、酔っぱらって大学の階段を転げ落ちて(何故大学の中で飲酒していたのかは秘密)、右足の腱を痛めたことがあります。当然ギプス半月の刑です。さて、晴れてギプスが外れて、いざ歩こうとしたら、これが歩けないんだ。足が歩き方を忘れている。そして、いいですか、「頭は歩き方をもとから知らない。」だって、歩き方を右足に指示しようにも、右足の何がどうなったら左足と協調して「歩く」ことが出来るのか、私知らないんです。噂には聞いていたけれど、あれにはちょっと感激しましたね。私はそれまで、足に「歩いてもらっていた」だけだったんです。全然自分のこと知らない奴だったんですなあ。はっはっは。

 ちなみに、今でも「何がどうなれば歩行が実現するのか」、私は知りません。だから再び足にギプスを填めることになれば、その先には再び「怪我していないけど歩けない足と一緒にしばらく暮らす」日々が待っている事でしょう。こういう、「よくわからない存在」を自分の内側に置いておくというのは、ちょっとリスキーかもしれないですね。なんせ何時暴走をはじめるかわからないからね。

 しかし、これは私が生きていくうえで「やむを得ない」事です。私の体は私の思いのままにはなりませんが、だからといってこれを切り捨てるわけにはいかない。だって思いのままにならないものを次々に切り捨てていったら、生命維持機能に支障が出て、私が死んでしまいますもの。

 要するに、私たちは「よくわからない存在」を排除して生きていくことなんか出来ないんですよ。体もそうだし、別の土地、別の国の人々もそう。ということは、国際理解とか異文化理解の教育というのは、もっと一般的で普遍的な状況、どこにでもある状況である「よくわからない存在とどうやって一緒に生きていくか」を教える教育と言い換えてもいいんじゃないでしょうかね。

 では、私たちは「よくわからない存在とどうやって一緒に生きて」いけば良いのか?
 この「よくわからない存在」が、結局のところよくわからないままだというのは明らかです。だって世の中の全ての情報をゲットすることなんか出来ませんから。私たちの身の回りには、必ず「よくわからない存在」がある。そこは諦めなければいけません。

 すなわち、国際理解や異文化理解というのは、まず諦めるところから始まるんですね。自分は相手の全てを理解するなんて不可能だとまず知ることです。いかに自分が相手について知らないかを思い知るのが第一歩なんだと思われます。その上で、知らないという所を含めて、相手と自分との関係を築いていくのがスマートなやり方です。

 少し、いや、相当に古い漫画で「めぞん一刻」という作品がありました。この作品の主人公の五代君は、夫と死に別れた未亡人の響子さんに好意を抱き、紆余曲折の末に二人は結婚する事になるのですが、五代君は響子さんの旦那さんだった人について、殆ど知らないのです。何故かその顔さえも見られない。旦那さんの写真を見るチャンスは何回か訪れるのですが、その度に邪魔が入ります。

 結局、五代君は、響子さんの旦那さんがどんな人だったのか殆ど知らないままに、響子さんにプロポーズします。そして、響子さんと結婚することになった五代君は、ある日、響子さんの旦那さんだった人のお墓を訪れて、次のように語りかけるのです。

「あなたはもう響子さんの心の一部なんだ。だけど、おれ、なんとかやっていきます。
 初めて会った日から響子さんの中に、あなたがいて、そんな響子さんをおれは好きになった。
 だから、あなたもひっくるめて、響子さんをもらいます。」
(高橋留美子(1987)『めぞん一刻』15巻、185-186ページ)

 ここで五代君は、「よくわからない存在」である響子さんの前の旦那さんをも、これからの自分の人生とともにある存在として引き受ける覚悟を決めているのです。これは、響子さんや響子さんの旦那さんだった人を「理解したつもり」になって結婚するよりも、大人なやり方だと思います。

 おわかりでしょうか。

 私たちは、様々な「よくわからない存在」と日々出会っています。その中には、どうした縁なのか、長い時間を一緒に過ごしていく事になるものもあるでしょう。そんな時、私たちに出来る事は、「よくわからない」ままにそれを引き受ける事くらいです。覚悟を決めて背中を預けるわけです。後ろから刺されたらそれはもうしょうがない。そこまで覚悟を決めた上で、一緒にやっていこうと手をさしのべる事くらいじゃないでしょうか。可能な選択肢は。

 国際理解、あるいは異文化理解教育。本当にそれをやろうとするのなら、私たちはハラを括らなければいけません。だって自分たちにその覚悟が無ければ、子供達にそれを教えることなんか出来ませんからねえ。

 いかがなもんでしょうか。みなさま、お覚悟はよろしいですか?