ゲーム/アニメ文体で書くことと「言いよどみ」と

良い悪いの話ではないんですが、今の若い人が日本語で書く小説のセリフって、漫画やゲームやアニメのセリフのそれとそっくりなものが多いです。

ラノベ研究ではラノベの文体が隣接するこれらの分野の知識を共有していることが前提になっている、という指摘があったかと思いますが、シビアなシチュエーションを描写する重厚な導入を地の文でやって、さあ人物が登場して会話が始まるというところで、セリフがアニメやゲームのそれになると、もう脳内には萌え絵とBL絵しか出てこなくなる不自由な脳の持ち主である私は、この流行(なのか標準なのかわからないけど)を手放しでは褒めづらい。

萌え絵やBL絵の表情の描かれ方もかなりパターン化されていますから、ゲーム/アニメ文体で会話を書くと、萌え絵やBL絵の表情のテンプレ集の中から表情を選んで組み合わせるような書き方になる。少なくとも私はそんな印象は持っています。このセリフなら皆さんあの表情を当然想像してくれますよね私もです、という。

そういう、共有アーカイブを利用した書き方は多分筆も速いだろうし、お客さんの顔が見えているところにそれをめがけて書いていくわけだから、打率も上がる。良いことだらけです。

ただ、旬は短いでしょう。初速でどれだけ出るかが全て。5年も経てばアーカイブも変わり、人も入れ替わるから、一気に古く見えはじめる。長売れするものを作るには、必ずしも最適ではないかもしれない。

また、ゲーム/アニメ文体による会話が読み手の想像力に一定の方向性と制限を与えがちであるという問題とは別に、ポンポンとテンポ良く交わされるクリシェ的な会話には、休符、あるいは「言いよどみ」が欠けているとも感じます。

ですが生身の人間の会話には言いよどみはしばしば発生します。

会話における「言いよどみ」の機能については、たしか佐々木正人がアフォーダンス論の一部で論じていたように思います。要するに発話のその瞬間に身体が意味を生成しているという見方をするならば、身体がそんなにデジタルにスラスラと意味を生成はしないだろうと思うのです。発話する主体が人なのか身体なのか言葉それ自身なのか、それらのミックスなのか、捉え方は人それぞれで良いと思いますが、それが意味の行き先を決めかねて、立ち止まったり、周囲を見回したりする。それが言いよどみなのではないかと思っています。

ゲーム/アニメ文体で書くのは、クリシェが大量にありますし、コードも顧客が共有してくれているので、生産性は高いはずです。その瞬間に流行っている言い回しを使えば時代性っぽさも出るかもしれない。

ですが、「言いよどむ主体」を小説の中で稼働させづらいという意味でも、ゲーム/アニメ文体クリシェテンプレを並べていく書き方は、両刃の剣なのではないかと、最近感じています。