スポーツ選手が競技活動と並行して、豊かな言葉を持ってその経験や思考を発表してゆくことは、今まで少なかった気がする。日本の場合、スポーツ選手が(ゴーストライターの聞き書き自伝ではない)まとまった文章を定期的に発表するだけでも反発する層が一定割合で存在するような印象さえある。
※140字が一度に書ける文章の上限みたいな人たちね
そうした価値観が近現代日本にあるとしたら、それは体育会に根強い、部員は練習と試合だけやっていれば良いという発想と表裏一体なのかもしれない。人口ボーナス期には上の言うことに服従し体力は山程ある人材は、いくらでもニーズがあったから、それで上手く回っていたのだろうが。
だが現実にはプロアスリートは賢くなければ生き延びられないし、大学教育を受けた人材ならば3000字程度の業務報告はコンスタントに書く/書けるのが当たり前だ。それがナントカ体育大学とか、ナントカ大学体育学部であったとしてもだ。
スポーツ選手が語ることを禁じる思想は、二つの意味でスポーツ選手を抑圧している。キャリア形成の自由と言論の自由の抑圧。トッププロこそ、経験を精緻に言語化し、考え、理論化し、伝える訓練を常に心がけていく必要があるのではないだろうか? その訓練が指導者や解説者や開発者や経営者となったときに生きてくる。指導者として低能な人間でも組織内政治を駆使すればコーチになれるような状況は望ましいものではない。
スポーツ選手のくせに、あるいはもしかしたら女子選手のくせに饒舌であることが気に食わないという思考が存在するのは、思想の自由があるので受け容れるとしても、トップ選手が経験を伝えず語らずフェードアウトしていくことの社会的損失は指摘しておきたい。
日本代表としてパブリックな資金で試合をしているような選手ならばなおさらで、代表選手としての経験を私蔵したまま、いつしか死蔵となって腐らせてゆくのは、むしろ代表選手としての責任を果たしていないとさえ感じる。知識や経験は共有し贈与しあう必要がある。