研究者の誰ひとりとして人類の知が完成する瞬間に立ち会うことは無い

華々しい業績を量産するも40歳でアカデミックキャリアが袋小路に突き当たり、44歳で自殺してしまった、西村玲さんという仏教研究者のエピソード

東北大で博士号→学振SPD(日本の給付型奨学金で一番レアでハイステータスなやつ。私はその下のグレードもあっさり外れて、その通知ハガキは今だに愛車のグローブボックスに入れてあります。事故よけのお守りがわりに。)→日本学術振興会賞・日本学士院学術奨励賞をもらったのが37歳。

ここまで凄いCVだったらどっか決まりそうなものなんですが、マイナー分野ゆえか20数件の公募に落ち(他の分野でこの歳まで公募受けてたら一桁多い「貴意に添えず」を経験しているはず。200件300件落ちるの当たり前です)、養ってくれるという口車に乗って14歳年上の男性と結婚したら統合失調症の人で家庭もあっという間に崩壊し・・・だそうです。

こういう事件、今後もちょくちょく発生するんだろうなあと思います。

アカデミックキャリアの1点買いで持てるもの全てを突っ込んでしまって、(主観的には)引くに引けなくなる人。サンクコストを切れなかった人。
客観的には40歳の時点からだってリスタート出来たはずですよ。

アカデミックキャリアだけじゃないですね。どんな場所にも、自分はこの業界この仕事この肩書しか出来ない、やりたくない、これを諦めるくらいなら死んだ方がマシだ、と固く信じて譲らない人は発生します。

たいがいは、本当に死ぬ前には前言撤回して別の道を探します(そういう人、嫌いじゃないです。むしろ好きです)。

稀に、本当に死んでしまう人がいます。

それについては、非常にもったいないとは思いますが、御本人の自由を貫いた結果なので、他の仕事をするよりマシな道、つまり冥界への道を選ばれたということも、ある視点から見れば言祝ぐべきことと言えます。

ただ、研究という巡礼路を一度は共有した仲間として疑問を呈しておきますと、

「あなたたちは一体研究を何だと思っているのか?」

古より、研究とは巨人の肩に乗って遠くを見るようなものと言います。科学とは何百万、何千万人もの研究者たちが時空を越えて築き続けるバベルの塔のようなものです。

その完成した姿を見られる研究者など存在しません。誰もが真理への巡礼路の一区間を自分なりに歩いて、後から来る人々に旅の続きを託すことしか出来ません。個人が歩いた区間の長い短いなど、科学という巨大な塔を打ち立てるプロジェクトの中では誤差の範囲内です。

20年研究しようが50年研究しようが、ちょっと離れたところから見たら同じようなもん。ですよ。だから、これ以上は進めなくなったら胸を張って巡礼から降りれば良い。あとは仲間に任せろ。エボルトを最後に倒したのは仮面ライダービルドだけれど、そこにたどり着くまでに散っていった仮面ライダーローグも仮面ライダーマッドローグも仮面ライダーグリスブリザードもみんな忘れないんだからさ。

研究は本質的に一人でやるものではないし、本質的には、その研究者のものでもない。

みんな、大きな一つのものを作る壮大な営みのひと欠片に、縁あって関わっているだけ。

研究は個人の仕事ではないのです。
研究は個人の趣味ではないのです。
もっと大きなものです。
我々が降りた後でも続いていくものです。
我々が生まれる前から続いているように。

そう考えたら、アカデミックキャリアから降りることなど悲しくもないし恥ずかしくもないのではないか?
(同じような状況で途方に暮れている博士の方、死ぬくらいならDMにてご相談くださいね。出来れば通院状態になる前に。きっと何某かのお力になれます)
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たった一人の親友以外、戸籍も含めて全てを失った天才物理学者が再出発したあの公園。

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