松下哲也のツイッター撤退宣言に逆バンクシー的なメディアパフォーマンスアートを見るべきたった一つの理由

先日、noteにて悲痛なツイッター撤退宣言をされた松下哲也さん。

 

実証史学の方法論をアピールするわりには自分に関する一次史料を抹消して検証をしづらくした上で独自の史観を展開しておられる気がしますが。

 

こういうものを見ると、歴史戦とか歴史修正主義という言葉をふと思い出したりもするのですが、もちろんたかがSNS上の言い争いの解釈を巡るものなので、実証史学の研究者による一つの実証実験あるいはそれ自体がバンクシー的な(Exit Through the Gift Shopのような)パフォーマンスアートとして楽しむべきところですね。

 

例えばバンクシーのBetter Out than Inのようなプロジェクトでは作家の物理的痕跡が他者によって次々に上書きされていく一方、それらがウェブ上に写し取られてもいくという構造を持っていたわけですが、松下哲也さんのプロジェクトでは痕跡の抹消と転写を担う者が倒置されているところに味わいがあります。

 

また松下哲也が「プライベート」でツイッターに参加していたという言明と、彼のアカウントの自己紹介欄が所属機関名や著書で埋められていたことのある種の「ねじれ」を、バンクシーが正体不明のストリートアート作家として都市やファインアートの世界に介入していったことの反転と見ることも出来ます。アカウント名も自己紹介欄も意味不明であるにも関わらず、その正体は誰なのか皆知っている研究者、たとえば小泉悠によるツイッター上の「戯れ」と比較してみることも、このパフォーマンスアートを享受する上では有効な補助線かもしれません。

何故、今回の松下哲也のツイッター撤退宣言と、それに伴う、ある意味で見え見えの歴史改変の手付きをバンクシーのプロジェクトとの関連で私が読み解こうとしているのか。

賢明な読者ならもうお気づきでしょう。

松下哲也のツイッターのヘッダー画像は日の出で発見された伝バンクシーのネズミの絵の前に経つ小池都知事の画像に、自分の顔写真をマッシュアップしたものだったではないですか。本来ならネズミがある位置にあったのが松下哲也の顔写真なのです。

こんなわかりやすいヒントを彼は残していったのです。

彼はあたかもバンクシーのように我々を挑発しているのです。歴史修正主義を見逃すな。ドブネズミが都市の闇から闇へと駆け回るようにしてツイッターの歴史を書き換えようとする何者かを追え。記録しろ。そして、SNSにアップしろ。

さて、我々は及第点を貰えたのでしょうか?

私自身は以前に彼がスーパー戦隊の巨大ロボットは東映スパイダーマンがオリジンで、それ以前に巨大ロボットをやっていた大鉄人17は関係無いと主張していたときに少しだけお話をした程度の関わりです。