In a Big Country, dreams stay with you

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 僕がロック音楽を聴き始めたのは1980年代の半ばで、丁度デュラン・デュランやハワード・ジョーンズやカルチャー・クラブが我が世の春を謳歌していた頃だった。つまり1984年前後ということになる。かつてビートルズやローリング・ストーンズがアメリカ合衆国に進出した頃に擬えて、「British Invasion」(第二次)などと言われていたような記憶もある。

 その後、僕はすぐにハード・ロックやヘヴィ・メタルを聴くようになり、ツーバスでツインギターでなければ嘘だと嘯いていたのだが、密かにアンディ・テイラーには憧れ続けていて、最初に手にしたバイト代で手に入れたのはシェクターのストラトキャスターだった。そのギターは今でも手元にあるのだが、色がバーガンディ・ミストだったせいか、ともすると竹中尚人(どちらかと言えば嫌いな音楽家だ)のファンのように見られるので、いつかあぶく銭が入ったらキャンディアップル・レッドに塗り替えてやろうと思っている。ストラト使いなら一にデイヴ・ギルモア、二にキース・スコットだ。三番目と四番目の奴の話はもう少し後で出てくるだろう。

 やがて大学に入った僕は西洋史のゼミに入るのだが、当時、そのゼミは「フリンジ・ゼミ」と呼ばれていたということを後から知った。フリンジfringeというのは「周辺」という意味もあり、そのゼミにはスコットランドとかウェールズとかアイルランドとか、あるいはロンドンのユダヤ人というように、イギリス史にしては裏筋のテーマをやりたい奴ばかりが集まっていたのである。最年長のゼミ生だった人はスコットランドが専門で、今はどこかの大学の専任教員になっているらしい。ゲーリック・リーグをやっていた人は博士課程まで進んだが、学位は取れないままどこへともなく消えていったという。人文系院生の末路というのはたいがいそんなものだ。

 話が少し逸れた。当時、つまり1990年代の前半ということになるが、「ケルティック・フリンジ」という言葉があったのだ。アイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォール、マン島、ブルターニュ、ガリシア。今ではお手軽な癒し系アイテムとしてどこのセブンイレブンでも買えるほどの安直なアイテムになってしまったケルト語圏の文化は、その頃はまだヨーロッパのド田舎のサブカルチャーでしかなかった。1991年に僕がアイルランドへ行った時、3週間滞在してすれ違った日本人は3人だった。要するにフリンジだったのだ。

 僕はフリンジの音楽に惹かれていた。ハード・ロックやヘヴィ・メタルも大好きだったが、フリンジ音楽にはそれ以上の不思議な魅力があるように思えた。だから修士課程では歴史学を選ばず、フリンジの音楽を文化人類学や歴史学ではなくメディア研究のような形で扱える音楽学のゼミを選んだ。こうやって立派に人生を踏み外したきっかけはフリンジ音楽なのだ。僕がついた先生は、ウディ・ガスリーやロバート・ジョンソンの国内盤の解説を書いた人で、『ミュージック・マガジン』では何十年間も「新着洋書紹介」という連載を持っていた。こう書くといかにもアメリカ音楽が好きなように聞こえるし、たまに興がのると研究室でギターを弾きながら「Blue Moon on Kentucky」を歌っていたが、実はフリンジ音楽も大好きで、学部の授業でアラン・スティーヴェルのLPなんかをかけていた。

 あの頃、ケルティック・フリンジには、ポスト・パンクのロック音楽を、郷土というものをキーワードにして構築していったバンドが幾つかあった。スコットランドのビッグ・カントリー、ウェールズのジ・アラーム、アイルランドにU2。その他、ロンドンにはザ・ポーグスという素晴らしいバンドがあった。実は僕のフェイヴァリット・ストラトプレイヤーの三番手はアラームのデイヴ・シャープで四番手がU2のエッジなのだ(ただし四番手の人は「Rattle and Hum」というアルバムまでの実績が評価の対象で、その後の彼の演奏には殆ど何の興味も湧かない)。

 これらのバンドに僕は夢中になった。デイヴ・シャープとエッジのギターの魅力もあっただろうが、彼らが紡ぎ出した歌詞の中身にも僕は惹かれた。彼らはいささかの衒いもなく、故郷を歌っていた。例えばスチュアート・アダムソンは、「In a Big Country」でこう歌っている。

「誇るべき故郷で君の夢は生き続けている
 山肌を照らし出す恋人達の声のように
 だから生き続けるんだ」

 スチュアート・アダムソン自身はマンチェスターに生まれたスコットランド系移民の子だったそうだが、ビッグ・カントリーを結成したのは自らのルーツであるスコットランドのダンファームリンだった。彼はこの曲で大きな成功を掴んだのだけれど、アルコールに溺れて故郷を捨てたのだった。テネシー州ナッシュヴィルに渡り、2001年12月のアイルランド代表対イラン代表のワールドカップ日韓大会出場プレーオフをパブで観戦した後に行方不明となって、最後はホノルルのホテルで遺体で発見された。
(つづく)