センセーの役得とは

学生から写真文化論のフィードバックを聞いていたら、世の中には眠い講義もあるという話になって、センセーは眠い講義どうしてましたかという鋭いツッコミを受けました。

教科書の中身を憶えていってテスト書けたら単位が出るようなものは、出てませんでしたね正直。申し訳ないです。

私が出ていたのは先生のトークライブが面白い講義と、学生も手を動かして考えないといけない講義。

前者の代表が、当時まだ都立大の博士課程の院生だった西平直先生(東大教育学部)の講義で、後者の代表はもちろん卒論の指導教員をしてくださった青木康先生(史学科)の講義です。

青木先生は当時、後に『議員が選挙区を選ぶ―18世紀イギリスの議会政治』(山川出版社、1997)にまとめられる研究をしておられる最中で、学部の講義でもその現在進行形の研究の中身をライブで見せてくれたんですよ、今にして思えば。英語の史料をポッと渡されて、これ読んでみろと言われて、これはどういうことだと思う? と質問されて、最後に謎解きがある。

おお、こうやって英語の文献からダイレクトに新しい知見が生まれてくるんだと感動しました。当時の西洋史系の学科は3年生になれば英語のテキストを使うのが当たり前でして、社学の子たちが何で英語テキストをあんなに恐れるのか正直よくわからんものがあります。

・・・・という話をしたあとで、「だから君たちも次の課題なんかは英語の資料を恐れずに読んでみたらどうだ」と挑発しました。

そもそも日本語で読める写真史関係の資料は質も量も英語圏のそれとは比較にならないくらいアレだからね。

「たしかに図書館で写真史の資料を検索すると、著者の名前がいつも見る人たちばかりで憶えちゃいそうです。」

でしょ? そんな狭い人脈の書き物だけを使うのではなく、英語を読もうとするだけで、君たちは無限に近い膨大な情報を獲得する自由を手に入れられる。もっと自由になれるんだよ。

たしかに!

英語は自由をもたらすツールという点に気づかせてあげた瞬間、学生の意識が前向きに変化したのが伝わって来ました。英語は辛いもの、面倒くさいもの、やらされるものというイメージがひっくり返った瞬間。

センセーをしていると、たまにこういう瞬間に遭遇します。数少ない役得。