北の内海世界

 今日は本の紹介です。

 入間田宣夫・小林真人・斉藤利男編『北の内海世界』山川出版社、1999年。

 日本中世史の研究者によるシンポジウムをまとめた本です。テーマとなったのは「北の内海世界」。何の事だかわかりますか? 「北の内海」。わかりませんよね。私もわからなかった。しかしこの本を読んでなるほどと思いました。

 私たちは日本列島の北の方の歴史をそもそもあまり知らないし、学校でも教わらないし、学校の外で語られることも少ない。ですけれども、その乏しい知識をたぐってみると、明治時代より前は北海道には松前藩というのがあって、その藩の外はアイヌの土地だったとか、平安時代には坂上田村麻呂という将軍が東北地方に攻め込んでいってこれを侵略併呑したとか、それくらいのイメージはある。

 じゃあですよ。平安時代と江戸時代の間はどうなっとったのか? 教科書的に言えば鎌倉南北朝室町織豊というあたり。え? どうなっとったんか? 知らないでしょ。私も知らなかった。

 この本は、その日本列島の北の方でも、特に北緯40度くらいから北のあたりに、海上交通網で繋がった一つの世界が広がっていたんじゃねえかという視点のもとに編まれた論集です。北緯40度といってもよくわからないから地名で言うと、あの義経が奥州藤原氏と一緒に滅んだ平泉ありますよね平泉。あの辺よりちょっと北の辺り。日本海側は八郎潟。そっから安比高原や八幡平を結んで、太平洋側はもう少し南の宮古とか釜石のあたりまで含むそうなんですが、その辺から北は、律令国家としての日本国の支配下には無かったそうなんですよ。つまり平安時代の古代日本はその辺りまで到達していなかった。その先にはエミシと呼ばれた人々がいた。縄文文化を引き継いだ続縄文・擦文文化の人々ですね。

 それで。そういった人々の世界は。北緯40度あたりから北、津軽海峡を越えて、今で言う北海道島へと続いていた。このエミシの世界は主に沿岸航路を用いた海上交通網によっても結びつけられていて、そういった海上交通網は本州島の北の端まで日本国の勢力が到達した鎌倉・室町時代にも、この地域の歴史に侮りがたい影響を与えていたんだそうですよ。

 一言で言えば、中世の日本列島北方つうのは、津軽海峡で区切られていたんじゃなくて、むしろ津軽海峡を含む列島北方の海上交通によって繋がっていた一つの世界だったってこと。しかも、その世界には日本国から流れてきた浪人やら日本国の出先機関として北方の産物を交易によって手に入れようとしていた役人たち、あるいは縄文文化の延長にいたエミシたち、さらに北方のオホーツク文化圏の人たちなんかの、多種多様な連中が混在して活動していたらしいんですね。例えば日本人が津軽半島や北海道島の沿岸にやってきて、現地のエミシをやとって干しアワビを大々的に生産して、それを日本国に送って商売するなんてこともやっていたらしい。逆に日本国からは漆器や鉄器などの工業製品が北方世界に入っていった。

 さらに室町時代には、太平洋岸から津軽に侵入した南部氏と、北方世界の海上交通網を握っていた安藤氏(坂上田村麻呂と戦ったエミシの大族長アテルイを始祖として、前九年の役で源頼義と戦った安倍貞任の後裔と称していたそうです)との間の覇権争いがあり、第一ラウンドは安藤氏が根拠地の十三湊を失って本家滅亡の憂き目を見るんですけれども、第二ラウンドでは甲斐とか若狭から流れてきた浪人たちが傍流の安藤氏を盛り立てて北海道島とか男鹿半島を根拠にして南部氏と対抗していき、さらに第三ラウンドでは北海道島で安藤氏の代官になった武田氏(当時は若狭の豪族で、後に甲斐に入って武田信玄を出す)の傍系が、アイヌ勢力とも戦いながら、道南地域の覇権を握る(そして松前藩になる)なんて国盗り物語が展開します。

私、この本を読みながらNHK今年の大河ドラマは「功名ヶ辻」なんてニュースを見ていたんですが。そりゃあ「功名ヶ辻」は面白いかもしらんけど、「新撰組」に義経に山内一豊なんて、もう手垢つき過ぎて手垢の中身がなんだかわからないくらいのネタじゃないですか。どうせなら南部氏と安藤氏、蠣崎(武田)氏の北方戦国志とかやったら良いのにと思ってました。

しかも、この北方世界のダイナミックな中世史の面白さは、日本国と北方世界の交渉史に留まらないんですね。北海道島の北の方には擦文文化人(アイヌ化する前段階の北海道島先住民)がいて、サハリン島に侵入していった。この時サハリン島にはオホーツク文化人がいたんですが、14世紀から16世紀にかけては、北海道島の北とサハリン島、さらにアムール河流域といったあたりで、擦文文化人、オホーツク文化人、元あるいは明といった中華帝国の勢力が、三つ巴の勢力争いを繰り広げていたんだそうです。この時にサハリン島に侵入した擦文文化人が、後にサハリン系アイヌになる。この頃に明の武将としてオホーツク文化人や擦文文化人とやりあっていたのが、田中芳樹さんが短編「黒竜の城」で主人公に出した明の永楽帝の配下の宦官の亦失哈(イシハ)なんですね。

あるいはもう一度日本国に目を戻すと、一端は南部氏に圧倒された安藤氏が現在の秋田県を地盤として勢力を立て直して行けた背景には、この地域の海上交通網を実質的に担っていた「有徳人」と呼ばれる地方豪族の一群の協力があるんですけれども、彼らは安藤氏に協力する一方で浄土真宗の門徒集団でもあった。つまり、中世の北方世界の海上交通網は浄土真宗のネットワークとしても機能していたんです。

他にも面白い話がありましたよ。擦文文化人がオホーツク文化人の作った板船を借りて元の勢力圏に攻め込んで来たとかね。

北海道とかアイヌというと、縄文と結びつけて古代史の文脈で語られるか、あるいは虐げられた先住民という役どころで近現代史に登場するというのが相場でしたけども、実は中世の北方世界が熱かった。その熱に、是非みなさんも触れてみてくだ