東アジア海洋文明

 ようやく世捨て人生活に戻りつつありますので、本ばかり読んでいます。

 今日ご紹介するのは、東アジアの様々な「海」を巡り、それら個々の「海」が集まって出来上がっている「東アジアの海」とはいかなるものなのかを考えた一冊。

船橋洋一『青い海をもとめて:東アジア海洋文明紀行』朝日新聞社、2005年

 著者が巡った海を列挙しましょうか。

・ 済州島の海女の海
・ ニブフの犬ぞりが渡る凍結した間宮海峡
・ サハリンの石油・天然ガス採掘の海
・ 造船を通して海洋国家として立つことを目指す韓国の海
・ 海賊と巨大タンカーが睨み合うマラッカ海峡
・ 海上の資源輸入路確保を目指す中国の潜水艦が走る東シナ海
・ 巨大家電メーカー「ハイアール」の本拠、黄海
・ 復興を始めた中国仏教の根拠地、浙江州普陀山の海
・ 日本列島とユーラシア大陸が竿戈を交えてきた玄界灘
・ 躍進続く中国市民社会と、海葬が広がる上海
・ 不法移民を送り出す福建省の海
・ 台湾海峡
・ 沖縄、摩文仁の丘
・ 中国の朝鮮族自治州
・ 万景峰号が入港する新潟の海
・ 水俣病の記憶を留める不知火海

 著者はこれらの海を通して、巨視的には日本、中国、台湾、韓国、ロシアといった東アジアの国々の歴史と思惑を眺め、微視的にはそういった国家間のせめぎ合いの中で逞しく、あるいは淡々と、あるいは絶望を飲み込みながら、海と関わって生き続ける人々の営みを辿ります。

 これらの海には戦争があり、平和があり、資源を巡る腹の探り合いがあり、しかし未来への希望がある。前の三つは海によってあったりなかったりするのですが、最後の一つだけはどこの海にも漂っている。著者は、その最後の一つをすくい上げすくい上げしながら、これらの海を繋いだ海洋文明の可能性に思いをはせるのです。

 文明というのはよく文化と並べられますが、何が違うのかよくわからないですよね。文明civilizationの語源はラテン語のcivilsなのですが、これは「公の」という意味なんだそうです。一方、文化cultureの語源はラテン語の「cultus」で、これは自然に働きかけて自然ではないものに変化させるという意味です。つまり、文明というのは「みんなで集まって創り出すもの」、文化は「自然の中から人間の工夫で創り出したもの」ということになります。

 話を続けましょう。著者の船橋さんは、海洋文明と言っています。東アジアの海を舞台として、「みんなで集まって」何か共有出来るものを創り出そうということです。東アジアの海を安定させ、平和かつ清浄に維持していく。そういう理念。それはどこか一カ国で出来ることではないわけです。例えば知床の生態系はアムール河の河の恵みを抜きには考えられません。東アジアの国々は、海を通してその陸地までも繋がり、一つの巨大な生態系になっているんですね。

 だから、中国も日本も韓国も、その端的な事実に目を向けて、現実的な課題として東アジアの海に秩序を構築しなければいけない。それをして船橋さんは「東アジアの海洋文明」と言っておられるのです。私もこの意見に共感します。

 ところで、一つ面白い話。氷結した間宮海峡を渡るニブフの犬ぞりですが、かつてのニブフは無論、方位磁針などもっていませんでした。でも天も地も真っ白一色の世界で、吹雪の中、ちゃんと方向を見失わずに海を渡っていった。それは雪の固まりを観察することで方角を知る技術が、ニブフに伝えられていたからです。ニブフの伝統航海術です。

 もちろんニブフの伝統航海術は、失われていっています。カラフト犬とともにね。・・・・面白くないか。