海・建築・日本人

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 予告通り本の紹介です。

西和夫『海・建築・日本人』NHKブックス(2002年)

 著者は東工大博士課程修了で日本建築史が専門です。現在は神奈川大学教授。

 神奈川大学といえば、日本中世史に巨大な足跡を残した網野善彦さんの奉職先でしたが、その通り、この本も網野史学の影響下に書かれた一冊です。

 網野さんはもともと能登半島の時国家という、平家の落ち武者の末裔と称する旧家の研究で名をあげた方なのですが、この時国家、建物そのものがやたらめったらバカでかいのです。それは何故なんだろう、という疑問が、晩年の網野さんが注目していた「海上交通」と結びついたところで生まれたのがこの本ですね。

 西さんは、古今の日本の巨大建築を「海を見る」「海から見る」という視点から再チェックして、日本の巨大建築には海が関わっていたものが少なからずあるのではないかという問題提起をしておられます。

 例えば三内丸山遺跡や吉野ヶ里遺跡の巨大柱痕。この南北の巨大遺跡に残された楼閣跡が、いずれも「海を見る」「海から見る」という機能を備えていたのではないか。三内丸山には日本海沿岸の海上交通路を通って糸魚川のヒスイが来ていましたし、吉野ヶ里は有明湾から船を使えば集落の真下まで来れたわけです。としたら? あの巨大楼閣は船の目標でもあり、船を見る場所でもあったはずです。

 あるいは秀吉が呼子におったてた名護屋城。この城は何故か海側を正面にして建設されていますが、それは朝鮮半島を征服した後に、半島からの人々をまず脅かそうという意図があったのではないか。

 金輪で繋いだ3連の巨大柱根が出てきた出雲大社も同様で、そこから推測される超巨大建築の意味は、出雲大社の位置がもともと斐伊川の河口に出来た潟港のほとりにあったことを考え合わせた時に理解できるのではないか。つまり、ちょっと前に紹介しましたが、日本海沿岸の潟港文化の頂点として出雲大社は考えられるのではないか、ということです。

 私たちが海に背を向けて生活しはじめた時、これらの建築物の本来の機能や意味も忘れ去られたのかもしれません。

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 今日は画像も沢山出しました。3枚目までは三内丸山に復元された楼閣。他にも屋根付きプランなど、何種類かの復元案がありました。
 4枚目は吉野ヶ里から出た木製の丸木船の模型。5枚目は吉野ヶ里の南内郭から北内郭を眺めた所。6枚目は南内郭の楼閣上から有明湾方向を見た所。現在は埋め立てでずいぶん海岸線が後退していますが、弥生時代にはおそらく有明湾も余裕で見ることが出来たでしょう。きっと弥生人の視力は3とか4とかあったでしょうから(太平洋戦争中も日本兵の視力は超人的と言われていました)。