あの山に灯る火を想う

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 リモート・オセアニアの伝統航海士たちが大海の中を行く時、その道しるべとなったものはいくつかありました。特定の海域の生物相(「あの辺りにはあの魚が沢山いる」「あの辺りにはあの鳥が沢山いる」)や波のうねりもそうですが、最も基本となるのはやはり天体でした。月と太陽、そして32の星々です。

 一方、我が日本列島の海の男たちは、国策として海禁をした時代が長かったこともあり、基本的には沿岸航行をしていました。大陸に渡る時も基本は同じです。九州の北、呼子や唐津あたりから対馬を目指し、さらに対馬から朝鮮半島へと渡る。九州から対馬は見えなくても、船で沖へ出れば、対馬と九州の両方が目に入る海域がありますし、対馬から朝鮮半島ははっきり見えています。

 727年から922年までは渤海国(現在の沿海州にあった国)との間に交流があり、渤海国使や遣渤海使は北陸地方や東北地方の日本海側から渤海国へと渡っていましたが、ある時期必ず吹く季節風に乗っていけば、必ず対岸にはユーラシア大陸あるいは本州島があるので、リモート・オセアニアの伝統航海士たちと違って、大海原の中の小島(例えばサタワル島は面積およそ1平方kmしかありません。しかも珊瑚礁の島なので高い山も無く、一番高いのは椰子の木です)に辿り着けなければそのまま明後日の方向へと飛び越して海の藻屑と消える、という悪夢を想定する必要がありません*。

 ですから、ある意味ではヌルい航法技術でも何とかなっていたという見方も可能です。

 さて、そんな彼らがアテにしていたのは、やはりなんといっても山でした。わかりやすい形をして、空高く聳えている山。そういう山の見え方で、自分の位置を割り出していったわけです。これを山アテと言います。ですから、海の男たちは山の神様を真剣に拝んでおりました。日本の山は山伏だけが拝んだものでもないのです。

 そんな信仰の一つの形として、日本海を行く北前船の間で広く行われた「日の入りのお燈明」というちょっとした儀式がありました。これは隠岐島の焼火山(たくひやま)の神様を奉る儀式です。
 
 職場で一番若い奴がコキ使われるのは昔も今も変わらぬ我が国の美風ですが、船の上で一番若い奴の仕事は飯炊きでした。カシキと言います。飯炊きをカシキと呼び、飯炊き君をカシキと呼ぶ。

 そんなカシキ君が夕食の準備を整える頃、日本海に日が落ちます。カシキ君は炊きたてのご飯をひと握り、鍋蓋に乗せて焼火山の神様にお供えします。次にワラで作った松明に火をつけて、船尾から海に向かってグルグルグルと3回まわし、海へと投げ入れます。こうしておくと、万が一、船が流されたまま夜になり、自位置を見失ってしまった時にも、焼火山の神様がどこかの山の上に火を灯して、船を導いてくれるのだそうです。

 周囲1000kmに渡って島影一つ無い太平洋のど真ん中を旅するポリネシアの伝統航海士たちからすれば、火を灯せる山が近所にあるだけ羨ましいぜとなるのかもしれません。ですが、これはこれで北前船の船乗りたちの心の機微がよく伝わってくる話です。いつかホクレア号が日本海を旅する時、エディ・アイカウの魂が宿る舵の脇から、やはり焼火山の神様に燈明を捧げるのでしょうか。

* 太平洋側では変な方向に流されて黒潮本流に乗ってしまうと、そのまま北アメリカ大陸まで行くかカモメの餌になるかのシビアな選択を迫られる事もあったようです。

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 画像は福井県の小浜湾の夕景。小浜は古代には渤海国との交流の窓口として、近世には北前船の大寄港地として多いに栄えました。

http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/C20/C201.htm