今日は「2ちゃんねる」風のタイトルでヒット数激増を狙っております。ですから、タイトルと内容はあまり関係ありません。
・・・・・・なんて事をやっていると、そのうち誰かに怒られそうなので、何かこのタイトルで書いてみます。
東シナ海を挟んでの昨今の罵詈雑言やら投石の応酬について、欧米諸国の新聞記事は概ね「どっちもどっちだから感情を廃して冷静に話し合いなさい。」というような論評を出しておりますね。学者さんも(一部のマッチポンプな煽動屋さんを除けば)そんな感じの意見。
しかしね。感情を廃すって難しいぞ。
いや、これは東支那海両岸方面罵詈雑言罵倒炎上掲示板愛好家諸姉諸兄が繰り広げている「先に仕掛けて来たのはそっちだろ、そっちが謝れ!」という、殆どあり得ないものをお互いに要求しあっている電網ドツキ漫才の類をどんどんやれ、という意味ではございません*1。
脳科学の話ね。最近流行ってるでしょう。「バカの壁」とか「豚骨ラーメンすすりながら中国の反日デモを韓国製32インチ液晶テレビで見た時のクオリア」とかいう、わかったようなわからんような理屈。
アントニオ・ダマシオAntonio R. Damasioという脳科学者がおります(世界的には「バカの壁」よりも「何でもクオリア」よりも圧倒的に有名な人らしいです)。そのダマシオさんは、私たちの心の動きを4つのステージに分けて説明しています。名付けて「情動emotion」「感情feeling」「中核意識core consciousness」「延長意識extended consciousness」。
「情動」というのは、外界からの刺激に対して私たちの無意識が自動的に反応している心の動きです。あるでしょう。「何故かわからないけど、なんとなくムカツク」ってやつ。あれですよ。怒り、悲しみ、驚き、喜び、恐れ、嫌悪。こういったものを私たちは常に何種類か同時に感じながら生きているんですね。
「感情」というのは、そういった「何故かわからないけど」がいくつか集まった時に意識に上ってくる心の動き。そのレシピ、配合の案配によって、私たちの感じる情緒というのは千変万化するわけです。「お、ちょっと良いね、これ」とか「俺は今、猛烈に感動している~~~~~~っ!!」とかね。
一方、「中核意識」というのは意識の中でも一番基本的なもので、「いま」と「ここ」を感じているもの。今現在の自分が、時間的に過去でも未来でもなく「いま」に生きているという感触、そして空間的にあっちでもそっちでもなくて「ここ」に生きているという感触です。例えば深い深い眠りから覚めた瞬間を思い出してください。一瞬、自分が誰でこれまで何をしていたのかわからないけれども、とりあえず自分が生きていることだけはわかる。しばらくすると、「ああ、そういえば疲れ果てて風呂にも入らずに寝込んじゃったんだっけ。」とか状況が飲み込めてくる。とりあえずシャワーあびとけ。
そして、「延長意識」というのは、「中核意識」に「ああ、そういえば」が足された状態。「ああ、そういえば自分の名前は」とか、「ああ、そういえばこないだナンパしたお姉さんは」という周辺情報が意識に把握されていると、そんな状態。
おわかりのように、脳に(脳梗塞や脳外傷による)器質的な損傷が無ければ、目を覚ましている私たちには、この4つが揃っておるわけですな。そしてダマシオさんによれば、この4つの中でも一番基本的なものである「情動」がきちんと動作していないと、私たちはバランスのとれた行動が出来ないのだそうです。怒り、悲しみ、驚き、喜び、恐れ、嫌悪というような、基礎的な「何故かわからないけど」反応が全部無いとダメってことですね。美味しい食べ物もそうですな。甘いなら甘いだけでは、旨くもなんともない。甘い中にもほのかな苦みと絶妙な塩味とか、そういうのが美味しい。でしょ?
例えば、不幸にもなんらかのアクシデントで、脳のうち、特定の情動を感じる部位が損傷したとする。怒りの情動を司る部位が損傷する。するとその人は、まったく怒らない人になってしまう。平和的で良いじゃないかって? そんな甘いもんじゃないっすよ。怒りという概念そのものがわからない状態になってしまうんですから、他人の怒りも想像がつかない。他の人はどういった時に怒るのかわからない。
これは、結構危険な状態です。
だから、私たちは感情を忘れるどころか、むしろ情動、そしてそれが寄り集まった感情に注意しながら(流されながらじゃないぞ)生きていかなければいけませんし、自分が冷静とか思っているようで、実は感情に大きく依存して生きているという事を憶えておいた方が良いと思うのです。心当たりありませんか? 当時は熟慮に熟慮を重ねて決めたつもりなんだけど、今から考えてみると舞い上がっていたとしか思えないような決断。バブルの頃にうっかり買ってしまったマンションやNTT株な。結婚とかもそうかもしれん。
こういう、「熟慮に熟慮を重ねた上での感情的な決断」がいっぱい集まって動いているのが、私たちの住む世界です。「冷静に感情を廃して」なんて有り得ないってば。それよりも「人間はいつでも感情的である」ことを踏まえて、そこから出発した方が良いです。
感情的である事は、決してイケナイ事ではありませんよ。
例えば1250年前に一人の狂人が中国におりました。名を鑑真。当時、日本には仏教の戒律を弟子に授ける資格を持った人がおりませんでしたから、日本では正式に仏教の僧侶になる事が出来ませんでした。鑑真は日本でこの資格を持った人を育てる為、5度の失敗の後、失明してもなお東シナ海を渡って、ついに日本列島へとやって来られたのです。
5回も失敗して、1度は海南島まで流されて、それでも懲りずに日本行きの船に乗り込んだというのは、冷静な人がやる事ではありません。たいがい諦めるでしょう。狂っていると言ってもいいかもしれない。しかし彼は来た。まさに「熟慮に熟慮を重ねた上での感情的な決断」です。
「冷静」な判断や理屈を越えた偉大な仕事を可能にするのは、感情、そしてその奥に潜む情動の力に他ならない。アジアカップ決勝暴動や上海反日打ち壊し(や中国総領事館への嫌がらせ)のようなアホな騒ぎをやらかすのも感情の力ですが、そういうアホな感情を乗り越えるのも、感情の力です。マウ・ピアイルグやエディ・アイカウやナイノア・トンプソンは、感情的になることでホクレア号に往復6000kmもの復元航海を完遂させ、ハワイの歴史を変えました。
とすると、もしも日中韓の政治家たちに理屈を越えた平和への強い感情があれば*2、理屈の上ではお互いに引っ込みがつかない煽りあいだって、感情でなんとかできるはずですわな。「冷静な話し合い」なんかじゃ解決しないですよ。「感情的な話し合い」をやるしかないのです。
ま、彼ら政治家たちには、とりあえず鑑真和上様の偉業でも思い起こして欲しいものです。諸君ら、1250年前に日中を繋げた中国の狂人の前に恥じる所は無いか。
*1 幼稚園児や小学生の中には、喧嘩することでしかお互いの愛情を確かめられない子も少なくありません。「いて、何するんだよ!」「ちょっと当たっただけだろ!」「おまえ、こないだキャラメルあげたの忘れたのか?」「おまえこそ、あの時カステラ食っただろ!」「そんなの昔すぎるんだよ!」「昔じゃなけりゃ良いのかよ!」「おまえの母ちゃんデベソ!」みたいな感じ。年がら年中そうやって愛を確かめ合っている。
今回の騒動で私が感心するのは、日がないちにちパソコンの前に張り付いて、あるいは日本料理店だの中国語学校だのにテロを仕掛ける彼らの、互いへの愛の深さに他なりません。君たち仲が良いのはもうわかったから、せめて法律の範囲内でお楽しみ下さいってなもんです。
*2 一番いかんのは小泉首相ね。彼は中国や韓国に愛も憎しみも、というかそっち方面に何の興味も関心も無い人なので、感情のこもった怒鳴りあいが出来ないのです。昔、「うる星やつら」というアニメがありましたが、その登場人物で「じゃりテン」という、いつも主人公と喧嘩をして火を吹いている幼児がおりました。その「じゃりテン」の名言に、こういうのがあります。
「わいはなあ・・・わいはなあ・・・・・無視されるのが一番嫌いなんや~~~っ!!」
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画像は福岡県太宰府市にある戒壇院。鑑真和上様が日本に来られて最初に戒律を授けられた場所です。この後、最澄が大乗戒壇を比叡山に設立するまで、日本に戒壇は下野薬師寺、東大寺、そしてこの太宰府観世音寺の3カ所にしかありませんでした。現在、この戒壇院の境内には日中不戦を祈念した石碑が置かれています。