A Blue Eyed Persian Soul made our National Helitage

 昨日は鑑真和上様の偉業を思い起こしつつ、昨今の東アジア、特に我が国の外交の貧相さを嘆いてしまいました。どうも重苦しい話になったような気がするので、今日はちょっと良い話を紹介します。

 鑑真和上様が日本に来られた時代、中国の王朝は唐でした。唐というのは中国の歴代王朝の中でもメジャーどころでして、その治世の特に前半は栄華を極めたとされております。学問芸術とも当時の地球上で最高レベルであったと。もちろん、超長距離外洋航海技術だけはポリネシアが当時の世界最先端でしたがね。

 さてさて、そういった富み栄えた土地には、世界中から人々が集まって参ります。日本からは遣唐使が来ましたし、西に目を向ければササン朝ペルシアやローマの文物も入り込んでおりました。このルートとなったのが海陸の「シルクロード」ですね。陸路を取っては唐の都長安から西、タクラマカン砂漠や葱嶺(そうれい:パミール高原のこと)、あるいは天山山脈の北側の「草原の道」を越えてアラル海、カスピ海へと向かう道あり、海路を取れば広州あたりからベトナム、マラッカ海峡、インド洋、ペルシア湾に至る海上の交易路です。

 しかしこの海上の交易路、今も昔も出るんですよ。あれが。ゴキブリじゃありませんよ。こないだ日本の貨物船がとっ捕まったあれ。そう、海賊。

 沖合を渡る交易船を襲っては積み荷を略奪し、船員は奴隷にして売り飛ばすという、ちょっといかがなものかという連中が中国の南のあたりに出没しておったんですね。そういう海賊に捕まって売り飛ばされる奴隷の中には、もちろん西の国の人々もおりました。

 例えば鑑真和上様の来日の際には、安如宝(あんじょほう)という人物もお付きの者としておりましたが、この人物は「胡国人(イラン人)」だったと記されています。また736年に帰国した第9次遣唐使の副使中臣名代(なかとみのなしろ)は、波斯人(ペルシア人)を1人連れ帰ったといいます。彼らはだいたい中国に交易に来ていて、その途中で海賊に捕まって奴隷として売り飛ばされた者のようです。

 ちなみに最近有力な説では、唐招提寺金堂の建造を手がけたのは、イラン(ペルシア)人の安如宝さんだったのではないかとされています。

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 唐招提寺金堂といえば、日本の国宝の中でも超A級の物件です。井上靖さんの『天平の甍』ね。中学生の頃に読みましたか? そういうスーパーでエクセレントでブリリアントなヘリテージを造ってくれたのは、遠くペルシアから流れ流れてこの島々にやって来た男だったんです。たぶん。

 みなさんも、今度代々木公園でイラン人を見かけたら、「国宝を一つプレゼントしてくれてありがとよ!」とでもお礼を言ってくださいな。