フィジー←→周防大島←→ハワイ←→周防大島←→対馬

 宮本常一さんの『忘れられた日本人』を読んでいたら、ほほうと思ったのですが。標題の件。

 これまでにも何度も書きましたが、山口県の周防大島という島は、ハワイに大量の漁民を送り出した島として知られています。ここはまた民俗学者の宮本常一さんの故郷でもありました。

 その宮本さん、ある時、対馬の浅藻という漁村を訪れます。梶田富五郎という老人の昔話を記録する為です。この梶田さんは、やはり周防大島の出身なのですが、そもそもこの浅藻という集落そのものが、実は周防大島から出漁していた漁師たちの基地として始まった所なのです。そこで集落の成り立ちを色々と宮本さんは聞き書きするのですが、その中で梶田さんはこんなことを言います。

「わしはまだ若かったので、久賀(現在の周防大島町大字久賀)と浅藻の間を行き来していたが、その頃(明治15年ごろ)久賀じゃあハワイへいくことがはやっての・・・・。久賀で働きやぁァ一日が十三銭にしかならんが、ハワイなら五十銭になる。何とええもうけじゃないかちうてみなどんどん出ていった。」

 要するに、ハワイに行けばもうかるらしい、じゃあハワイに行くかという感覚です。一方、梶田さんはその頃にはもう一人前の漁師で、対馬沖でじゃんじゃんタイを上げていたので、ハワイにはあまり興味が無かったんだとか。それどころか、自分たち久賀の漁師はタイしかやらないが、同じ漁場にブリもわんさか居るから、お前達も来いといって、同じ周防大島の沖家室のブリ漁師たちを対馬に呼んだりもしたそうです。それで沖家室の漁師は、もちろんハワイにも沢山行きましたが、対馬にも沢山行った。そして、久賀の漁民に合流して、浅藻の漁村をさらに拡張していったと。

 一昨日、紹介した「カツオとかつお節の同時代史」にも似たような話がありました。沖縄の漁民はカツオやカツオの餌になる小魚を獲るのがめっぽう上手い。それで「トラック諸島」(現在のチューク)に行けば儲かるらしいぞという話になれば、ほんじゃあ行ってみるべといって稼ぎに行く。

 あるいは、宮本さんの祖父、市五郎さんの一生を描写した章があるのですが、その中で、市五郎さんの長男は21歳の時にフィジーに出稼ぎに行きます。これは350人で行って105人しか生きて帰れなかったという悲惨な出稼ぎだったそうですが、ともかく明治のはじめごろに、21歳の若者がフィジーに行っていたわけです。働きに。

 それくらい昔の日本は貧しかった。世界的に見ればまずまず豊かな国土で、大飢饉でも無い限り道ばたに餓死者の屍体が転がっているというような土地ではありませんでしたが、そこに行けば食えるとなれば容易く故郷を捨てた。だって故郷では生活が成り立たないから。今、ハワイに日系人がわんさかいる理由の一つには、こういった時代背景があったんですね。

 しかし、この本に出てくる人たちは(名高い「土佐源氏」氏を除くと)ホントにもう、やたら働きものでして、ひたすら働きに働いて生き延びていった。

 そこから較べると、現在の日本は比べものにならないくらい富み栄えた国です。大企業は直近の決算で空前の利益を誇示しています。

 のはずなのに、たまに餓死者が出ていたりするし、将来不安で子供もロクに産み育てられない、それどころか契約社員や派遣労働者、業務請負、パートにアルバイトなど、使い捨て労働力として扱われて所帯も持てない人たちがいる。増え続けている。今、ニートが問題だなんてよく言われますが、そういったニートと呼ばれる人たちのかなりの部分は、そういう過酷な使い捨て労働の最前線で骨の髄まで搾り取られて、出涸らし状態にされた人たちです。

 なんか変だよなあ・・・・というひっかかりも感じますねえ。