ふと思い出して、司馬遼太郎さんの『オホーツク街道』を読み返してみました。
ご存じ「街道を行く」シリーズの中の一作で、既に須田刻太さんは亡くなって安野光雅さんが挿絵を描いている時期ですね。この本の中で司馬さんは、紋別・網走を起点として宗谷岬、知床(斜里町ウトロ)まで、オホーツク海沿岸を旅しています。
司馬さんがこの旅で見ようとしたのは、かつてオホーツク海沿岸で活動した漁労採集の民の足跡です。おお、アイヌか、と短絡しちゃだめですよ。たしかにアイヌは北海道島の先住民の代表格ですが、沖縄の人々との類似が指摘されているように、どちらかと言えばかつて日本列島を覆っていた縄文人の末裔という性格が強いんですね。弥生式農耕が北上する中で東北、北海道と追いつめられていった縄文人の生き残り、という見方も出来るかもしれません。
アイヌたちの先祖はだいたい本州島が室町時代に入るころまで、縄文の生活を発展させた続縄文という文化を生きていました。それで、その頃までの生活様式は、その後のアイヌのものとは明確に違うんですね。ところが、13世紀くらいに北海道島の住人たちの間で生活様式の大きな変化が生まれて、それで出てきたのが、現在はアイヌと呼ばれている人々なわけです。
それでは、その頃、北海道島の住人たちの間で何が起こったのか。
一般的には、オホーツク文化の民との文化混淆であったと考えられています。
オホーツク文化の民というのは、黒竜江下流域やサハリン、北海道島などで活動していた漁労民で、縄文系の人々とは明らかに違う系統の文化を持ち、しかし縄文系の人々とも交流していました。
司馬さんは、このオホーツク文化の民の痕跡をも見に行ったんですね。
ちなみに、オホーツク文化の民の直系の末裔もまた、現代の日本に、細々とではありますが、暮らしています。例えばウイルタと呼ばれる人々。この人々はもともとサハリン(一時は日本国でしたこの島)に住んでいたそうですが、太平洋戦争敗戦後の大混乱の中で日本国に逃げ延びて来た(ソ連では日本のスパイとしてシベリアの収容所送りにされる危険があった)方もおられたのですね。
もちろん日本国でも差別の対象になって苦労に苦労を重ねたのですが、スターリン時代のソ連というのは差別どころではなく命の危険が極めて大きい場所でしたから、ウイルタの人々も苦渋の選択として、父祖の土地を離れられたのでしょう。
現在でもウイルタ協会という組織があって、様々な活動を続けているようです。
司馬さんがウイルタやアイヌを見る目は非常に温かいです。そしてもちろん、モノとしてではなくヒトとして、ウイルタの文化を守り伝えようとしている方々に敬意を持って接しておられます。
日本列島という島々の連なりは、同時に様々な人々の連なりでもあります。海洋民に限ったって南島系のハヤト族と、江南系のムナカタ族、アズミ族、スミヨシ族がいる。さらに北へ行けばアイヌがいてウイルタがいる。その間にだって千変万化する地方文化が栄えている。
つまり、日本の辺境に少数民族がいるのは当たり前のことである。
司馬さんは自然体のうちに、私たちに範を示してくれているような気がしますね。若いあんたたちはちゃんと少数民族とつきあっていきなさい。それは別に難しいことじゃないんだよ。人間としての良識をふつうに持っていればいいんだよと。
だから、司馬さんはかつてウトロの地でアイヌとウイルタが殺し合いをした話を紹介して、当時猖獗を極めていたユーゴ内戦と較べながら、次のように書くわけです。
「しかし他の民族を鬼かゴジラのようにおもうという原始感情の点では、すこしも両者に違いがない。殺す者も殺される者も、それをテレビで観るものも、みな茫々と古代から続いている痴呆症のなかにいる。」
先住民だからといって、排他的民族主義を振り回した殺し合いが正当化されるという理屈はないでしょ。そりゃ反省すべき歴史だよね。そうはっきり書く。同時に、だからこれを読んでいるあんたたちは歴史から学びなさいとほのめかしている。
すばらしいバランス感覚です。全肯定でも全否定でもない。この姿勢、大いに学びたいものですね。
さて、話を戻します。現在ささやかれているプランによれば、ホクレア号の日本航海では函館や白老など北海道島にも立ち寄る可能性が大きいですよね。そこには日本の北辺の先住民であるアイヌ諸族との交歓というビジョンがあることでしょう。藤崎達也さんによれば、アイヌ・アート・プロジェクトの人々はタイガー・エスペリさんの薫陶を受けておられるそうですし、アイヌと先住ハワイ人がカヌーという共通のキーワードをもって交流をするという試みは、既にそれなりの歴史を重ねてもいます。
ですが、どうせなら、ウイルタのように、別の形でオホーツク文化を受け継ぐ人々にもまたメッセージを送ってみるというのはいかがでしょうか。北海道島は日本国の領域として見れば北端ですが、かつてオホーツク文化を築いた人々にとっては南東の端であって、要するにオホーツク文化の痕跡というのは日本国の国境線を越えてまだまだ拡がっていっている。さらに東に行けばアリュートの民がいますしね。