「枯野」伝説の学問

 「カヌー」の語源なんじゃないか、なんて無茶な話もかつて出ていた、古事記の仁徳記における「枯野」の伝説。もちろん古事記なんていう大メジャーな文献の、仁徳天皇というこれまた大メジャーな王様の時代の話ですから、まともな学問の世界でもそれなりに考察されております。

 そこで、これから数回にわけて、学問の世界では「枯野」はどんな風に論じられているのかを紹介してみたいと思います。

 第一回は、「枯野」の船体となった巨樹のお話。 王小林さんという、当時、京都大学大学院の国語学国文学教室の博士課程に在籍しておられた方が、『国語国文』という雑誌の64巻11号に「仁徳記枯野伝承考-大樹・寒泉・琴と漢籍」というタイトルの論文を書いておられます。

 その中で王さんは、まずは仁徳記の文体そのものに注目し、前後の、つまり他の王様の時代の文章よりも「漢文っぽい」ということを指摘します。その上で、巨樹の大きさを表す「朝にはその影がどこそこにかかり、夕方にはその影がどこそこにかかる」というフレーズが、この記事以外にも日本書紀の景行記、筑後国風土記、肥前国風土記、播磨国風土記に使われていることを示して、このフレーズには元ネタがあるだろうと考えるんですね。そこで王さんが注目するのが、東晋の時代(4世紀前半)に書かれた、様々な伝奇を集めた「捜神記(そうしんき)」という本です。ちなみに東晋というのは後漢が倒れた後、魏・呉・蜀のいわゆる三国時代になり、その三国のなかで一番強力だった魏を、その重臣である司馬氏が簒奪して出来た王朝ですね。魏は魏志倭人伝を残した国です。

 この「捜神記」の18巻の中に、三国時代、ある場所にばかでっかい木があったという話が出てきます。4つほどあるのかな。廬江にあったとか、張遼(魏の名将で呉との戦いの責任者だった)が江夏にいたときに買った家に生えていたとか、中にはその木を切って船を造ったという話もあったりと、まあストーリーは色々なんですが、その文体が仁徳記や風土記に似ているんだそうです。それで、仁徳記や風土記の巨木伝説を書いたやつは、この本読んでたんじゃないのかと。

 同じく、朝にはその影がどこそこにかかり、夕方にはその影がどこそこにかかる」というフレーズも中国の古い本にあるんだそうです。こちらは「捜神記」どころじゃないメジャー文献「文選」。この本は中国の南北朝時代(5-6世紀)、南朝の梁の王太子だった昭明太子が編纂した本ですね。南北朝時代というのは司馬氏の晋が崩壊した後に、中国の北と南で別々の王朝が続いた時代です。これは最終的に隋によって統一されます。

 ともかく、そういった中国の本の影響を受けた文体で「枯野」伝説は書かれているわけですね。それで、では何故、そういった話が仁徳記に載ったのか。王さんは、中国の「淮南子」「山海経」などから取り入れられた世界樹の概念が影響しているのではないかと指摘しています。中国には崑崙山という伝説の山があって、そこには仙人が住んでいて、天地を貫く巨木が生えているという神話があります。仙人の国の木ですから、これはとても目出度いものなわけです。そこで、仁徳帝という偉大な王様の時代に、河内の国にそういう目出度い木が見つかったという話をして、仁徳帝を讃えているのではないか。

 これが王さんの考えです。

(続く)