日本の海を知らない

 ホクレア応援ウェブサイト・ウェブログを作っていて痛感することがあります。

 「自分は日本の海を知らない。」

 だってこれ始めるまで、日本の船の歴史知らなかったんですもん。タンカーやフェリーでも日本丸や海王丸でもなく「矢切の渡し」でも無い船って、「みちのく北方漁船博物館」で見た北前船の模型とかそれくらいしか知らなかった。どこにどんな船があって、それらはどうやって進化して、どう使われたのか。

 今だって良くわからない。「義経」が八艘飛びをした船ってどんな船? 壇ノ浦で安徳天皇が乗っていた船はどんな船? 後醍醐天皇はどんな船に乗せられて佐渡へ流されたの? わからん。

 いや、正確にはわからないんじゃなくて知らないんです。何故知らないかと言えば知る必要が無かったから。入試に出ないし、仕事でも必要無いもんね。加えて言えば、そういう知識を求める事で(ポリネシアの人々のように)アイデンティティ探し、自分探しをする必要も無かった。

 アイデンティティ探しと言えば、ある韓国の知識人がこんな内容の事を言いました。

「何故韓国が日本と対立したがるのか。それは日本に対して怒り続ける事で自らのアイデンティティが手に入るからだ。だから私は日本が羨ましく思える。(最近でこそ自虐史観などと言い出したが)これまでそうやって腰を低くしても平気でいられたのは、日本人が本来的に自信に満ちあふれていて、必死になってアイデンティティを探す必要が無かったからではないのか。」

 う~ん、言われてみればそうかもしれない。

 もちろん日本国内にもマイノリティはいますけど、概ね私たちは、集団でアイデンティティ追求をする切実な理由を持ち合わせていない。少なくとも私自身はそんな感じです。だから中国や朝鮮半島の自民族至上主義者にいくら挑発されても何にも気にならない。若い頃は他人より高い車乗り回したくなるけど、いい加減自分というものが確立されたら、今手元にある車を大事に乗っていればそれで良いと思えますしね。高速道路で青筋立てたおじさんやおにいさんがベンツに乗って疾走して来れば、「はいはい、どいてあげますよ。ご苦労さん。」と左ウィンカー出してしまいます。

 こういうウェブログ・ウェブサイトをやっていて見えてきたのは、むしろそういう事でした。
 ですからホクレアとかエディ・アイカウとか航海カヌー文化復興運動の向こうに常に見えてくるのは、自分自身の姿、日本の姿ですね。どんどんそこに焦点があってくる。
 どんな分野でもそうですが、学べば学ぶほど、その対象を通して世の中の奥深さ、広さ、底知れ無さが見えてきます。楽器を弾くことだって写真を撮ることだってそうですよ。きっとサーフィンもやればやるほど奥は果てしなく深いのが見えてくるんだろうし、アウトリガー・カヌーもそうなんでしょう。そうやって一つの対象を通して視野を広げ、知識を増やし、考えを深めていけば、必ず自分の姿も目に入る。それまでにだって見えていたとしても、今度はより深い所まで見えるようになる。

 自分が日本という場所でホクレア号について語ることの中には、そういう形での効用もあるんじゃないかと思えてきました。最近。

 そういうわけで、むしろ純粋な知的興味の対象として、私には日本の海が面白くなって来ています。何故ポリネシアはダブルカヌーでミクロネシアはシングル・アウトリガー・カヌーで日本は樽船になったのか。何故彼らはひたすらに海を越えていき、私たちの祖先は海を閉ざしたのか。それが単純に知りたい。

 このように知る事そのもの、知識そのものを愛するのは、決してハンパな態度ではありません。古代ギリシアではそれをフィロソフィアと言いました。英単語philosophy、すなわち哲学の語源です。

 というネタで結局何が言いたいか。この一言が結論です。「面白いリンクみつけました。」

日本財団(モーターボート競争財団です)のウェブサイト。
世界の船の歴史のまとめの中盤で、日本の船の歴史が詳しく紹介されています。ディスカバー・ジャパンです。陸の上のディスカバーは国鉄が35年前(!)にやったから、今度は海でいってみるぞ。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2000/00200/mokuji.htm