徐福の話をもう少し続けます。
徐福は実在の人物だったのか。もちろんはっきりした事はわかりませんが、歴史学では、少なくとも実在していてもおかしくはないという位には真面目に考えられているようです。
それでは船出した徐福はどこへ行ったのか? 海の藻屑と消えたのか、どこかへ辿り着いたのか、辿り着いたとして、それはどこか。
それは・・・・・・残念ながらわかりません。余程とてつもない新しい史料が出てこない限りは。それもまあ望み薄なので、徐福は歴史の闇の中に消えたと言うしかない。徐福本人とそれに付き従った人々はね。
しかし、歴史上の徐福の功績は、そういった大航海をやった(やろうとした)事そのものよりも、そういうロマン溢れる謎を残した事のほうにこそ大きいような気がします。なんせ、日本国内だけでも「徐福が来たのはここです。」という土地が両手両足の指使っても数え切れないくらいある。まあ、桃太郎の故郷だって5つくらいあるんだから、もう少し実在っぽい徐福ならその4倍以上あってもおかしくはないですね。
それで、本当に徐福がそんな各地に足跡を残したのか? 徐福は日本一周、秦日友好の航海をやったのか? それもまた謎です。だって徐福伝説そのものは中国の正規の歴史書に書いてあるんだから、漢文が読める人が居て、「そういえばじいちゃんの話では、昔あそこの浜に得体の知れないヨソ者が流れ着いたそうだ。」という昔話があれば、「もしかしたら徐福が辿り着いたのはあそこじゃないのか?」ってなりますもん。証拠なんか要らない。伝言ゲームと同じです。
でね。こういった伝言ゲームのネタとしてこそ徐福の真価があるんだと思うんですよ。うろ覚えの昔話や噂話と徐福という名前が結びつく事で、無数の想像(あるいは妄想)が生み出されて来た。しまいには「徐福は北アメリカに渡ってネイティブ・アメリカンになった」なんて学説まで唱える人が出てくる位。内田正洋さんも「日本に来た徐福の船団はダブルカヌーを使っていたかもしれない(だから徐福の末裔が日本列島経由でポリネシア人になったかもしれない)。」といったように想像の翼を羽ばたかせておられますしね。
こういった、殆ど何も根拠が無いような所から、想像力を働かせて豊かな物語を生み出していけるのが、人間の凄いところです。中国の史書に記された、今だったらまとめてもA4の紙2枚でプリント出来てしまうような記述から、まさに無数の伝承や想像が生まれ続けている。そして、そういった伝承や想像には、それを語った人々の願いや思いが込められているんです。私たちは、そういった伝承や想像を見る事で、人々が徐福に託してどんなロマンを求めて来たのか知る事が出来る。
孫権は、徐福伝説に、戦争をやるための兵隊の補給源を見ました。かつて日本各地で徐福伝説を語った人々は、「自分たちの祖先が中国から渡ってきた特別な人々であって欲しい」という願いを胸に秘めていました。徐福がアメリカに行ったという人は、「中国人はコロンブスより偉い」事を論証しようとしました。内田正洋さんは、「ポリネシア人の祖先は日本列島人であって欲しい」という希望を徐福伝説に託しました。
徐福伝説もまた、人間とは何か、どんな存在なのかを私たちが学ぶための、素晴らしい教材なんですね。