「大王のひつぎ」実験航海に関わっている海事史学者の松木哲さんが、ちょっと面白い話を書いているので紹介します。
潟の話です。
例によって「潟」をgoo辞書で引いてみると、こんな感じになりました。
「かた 【潟】
(1)砂州または沿岸州によって海と切り離されてできた湖や沼。狭い水路で海に通ずるものもある。潟湖(せきこ)。ラグーン。石川県の河北潟はその例。
(2)遠浅の海で、潮の干満によって陸地が現れたり水面下に隠れたりする所。干潟(ひがた)。
(3)浦。入り江。今も「松浦(まつら)潟」「清見潟」のような地名に残っている。」
へええ。濁らないんですね。ガタじゃなくてカタなのか。上にナントカと付くとガタになるんですかね。おっと、そういう話ではなくて。
松木さんは、この潟が古代日本の海上交通に果たした役割が非常に大きかったのではないかと考えておられます。この場合、松木さんの念頭にあるのは上に引用したうち(1)の潟ですね。川が運んだ土砂が上手い具合に細長く堆積すると、その砂州が湾を形成して、良い港になるのだそうです。典型的な地形が天橋立です。野田川という川が運んだ土砂が宮津湾の一部を閉じて、阿蘇海という潟を作っています(画像)。
松木さんは、こういった潟を利用した港が日本海側に非常に多い(多かった)事、そしてそのような潟港(せきこう)の周辺に大型の古墳や大規模な遺跡、また中世には物質的に豊かな集落が存在していた事に注目し、次のような仮説を立てます。
・潟港は中世以前の船の停泊地として使いやすい
・日本海側には手頃な潟が丁度良い具合(丸木舟や準構造船で1日程度の航程)で連なっていたため、海上交通が発達した
・潟港を結ぶ海上交通網による物流は、潟港周辺に莫大な富をもたらし、大型の古墳や大規模遺跡を作りうる勢力が成立した
松木さんは、その好例として京都府の丹後半島、カニで有名な間人(たいざ)港の近所にある竹野川河口付近(現在は潟は消失)にやたらと大型古墳が多い事を示しています。
逆に太平洋側になると、そもそもそういった地形がなかなか形成されない為に、潟港間の航程が遠くなり過ぎる事、また川のパワーが強すぎるので形成される砂州も大きすぎ、潟港を維持するのに欠かせない港内の浚渫(砂の除去)や砂州を横切る水路の保全が大変である事などから、潟港を核とした地域社会の形成が難しかったのではないかと松木さんは考えています。例えば登呂遺跡は安倍川の河口にあった大規模集落ですが、安倍川のパワーが強すぎて潟港を維持しきれなくなり、放棄されたのではないかとのことです。確かに安倍川といえば三保の松原を作ってしまうくらいに強烈な砂を吹く川ですから、日本海川のショボい川が作る潟港のようには使い勝手は良くなかったのでしょう。
もちろん太平洋側でも縄文時代から伊豆諸島に丸木舟で渡って黒曜石を取ってくる猛者はおりましたが、各地の港に豊かな富が蓄積されるほどの海上交通網が成立したとは言いづらいようです。
なお、中世まで富み栄えた日本海沿岸各地の潟港も、農業経済の発達に伴って干拓が進み、あるいは海上交通路の衰退によって、次々に姿を消していったようです。青森県津軽半島の十三湖などは有名ですね。十三湖はかつて「十三湊(とさみなと)」と呼ばれた巨大なハブ港でしたが、戦国時代に突如滅んでしまいます。ここも典型的な潟港だったようです。
日本海沿岸というと、豪雪でスキーで温泉で海の幸でというイメージが支配的ですが、こういった想像力を働かせながら旅をしてみるのも、また一興ではないでしょうか。私は津軽の先端から山口、さらにこの間は唐津まで、殆どの海岸線を車で旅行した事がありますが、鄙びた風景の中にもかつて海上交通で栄えた華やぎを残す土地が点々と連なっていて、とても好ましいものです。ホクレア来航の際には、太平洋側だけではなく、是非とも日本海沿岸を訪ねていただきたいものですね。