「サバニといっても鯖の煮付けじゃないぞ」

 今月号の『Tarzan』は、いつもの内田さんの連載の他に、沖縄のサバニ帆漕レースのレポート記事も載っていました。このフレーズはサバニ帆漕レースのレポートで内田さんが使ってしまったものです。

 読んだ瞬間、総毛立ちましたよ。

 すっげー。内田さん、そんな芸風あったのかよ!! 紛う方無きオヤジギャグじゃん。衝撃のあまり、これを読んだ日の晩飯は三浦半島産の鯖で作った鯖の煮付けにしてしまいましたよ。味噌はアイチの赤だしで・・・・。

 ともかく、かなり詳しいサバニの説明やナイノアさんの写真入りの記事なんで、チェックしてみてください。

 連載「いざっ、カマ・ク・ラ」の方は、沖縄と本土の共通性の話。ちょっと前に小林よしのりさんの『沖縄論』を紹介した記事と内容がダブりますが、内田さんもどちらかと言えば小林さん的な立場で、DNAや琉球王家と本土の関係を論拠に、沖縄と本土は同根であるという主張をしておられますね。

 ただ、私が指摘したいのは、DNAというのはあくまでも量的な指標であるということ。そして、DNAが人間のありように与える影響は、最大限見積もっても50%以下だということ。たまたま今日読んでいた、脳科学者のジョセフ・ルドゥーの本『シナプスが人格をつくる』には、こんな文言がありました。

「しかし、遺伝子は心と行動の機能のアウトラインをおおまかに形作るにすぎないことを肝に銘じてほしい。ある特色について、遺伝子が原因になっているのはせいぜい50パーセントというところで、多くの場合はそれをはるかに下回る。遺伝は私たちをある方向に偏らせるかもしれない。けれども遺伝子がどのような形で表現されるかには、遺伝以外にも多くの要素がかかわっている。」」(6-7ページ)

 私は、沖縄と本土の風土は違うと思いますし、言葉も違うと思う。風土や言葉が違えばものの見方、感じ方は違ってきます。例えば沖縄には仏教寺院が殆ど無い。沖縄の墓地に行くと、儒教式の霊廟がたくさん並んでいます。だから家の中にも仏壇が無い。これはもう、統計学上明らかに有意なレベルで違いがあるわけです。縄文土器にしたって、先島諸島から先では出ていません。台湾系の土器が出ている。事はそう単純じゃないんです。

 たしかに、沖縄の人に「ヤマトンチュー」と呼ばれるのは、決して気分の良い経験ではありません。私個人についていえば、はっきりと不快で、止めて欲しいと思う。だから、「そういう区別をするのはもう止そうぜ。」という内田さんの提案にも意味があるとは思います。ですが、私は敢えて別の道を提案したいですね。

 お互いの違いを受け入れつつ、お互いに向かって開かれた関係をつくるという道です。ホクレア号の日本航海も、たしかそういったコンセプトで来るんじゃなかったでしたっけ。

 ビショップ博物館には、ハワイ文化に影響を与えた外国の文化として「日本」と「沖縄」が明確に区別されている。その程度には、本土と沖縄は違う。それは、気にとめて置いても損はないと思いますよ。