死せる徐福、生ける孫権を惑わす

 孫権。読み方わかりますか? そう、「そんけん」。孫の権利のことじゃないっすよ。「三国志」に出てくる英雄の一人です。「三国志」の中でも知名度は超A級。

 かの孫子の末裔を名乗り、父親の孫堅、そして兄で「江東の小覇王」と呼ばれた孫策の後を継いで長江流域に呉王朝をうち立てた名君です。目が青かったといいますから、もしかしたらペルシアとかトルコ系の民族の血が入っていたのかもしれないですね。

 208年には名将・周瑜を用いて赤壁の戦いで曹操を破り、さらには陸遜を用いてかの関羽を討ち取るなど、優れた部下を上手く使いこなしてよく国を保ちました。付き従ったのは韓当、黄蓋、程普、周瑜、呂蒙といった名将、諸葛勤、張昭、張紘、魯粛といった名臣たち。こうやって名前が並ぶだけで血がたぎってくる方もおられる事でしょう。

 で、その孫権がどうしたのか。よもや航海カヌーを作ってハワイまで行ったわけでもあるまい。まあ、そうなんですが、ちょっと近い事はやらかしましたのです、この方。

 孫権は三国志前半の英雄達の中では飛び抜けて長生きしました。孫家の家督を継いだのが200年。曹操は220年に死に、劉備も223年には弟たちの後を追うように亡くなってしまいます。劉備に後を託され、司馬懿と死闘を繰り広げた諸葛亮も234年には五丈原の戦いの最中に没して、これで三国志前半の英雄豪傑達の殆どが姿を消します。

 ところが孫権だけは別でした。彼はまだまだ長生きをして、結局252年に71歳で死去します。そして、この長生きが妙なエピソードを生みました。

 「三国志演義」ではなく、正史(中国の歴代王朝が公式な歴史書と認めたもの)の「三国志」中の「呉書・孫権伝」に、

「黄龍2年(230年)、孫権は配下の武将である衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)に命じ、兵1万人を夷洲(いしゅう)と亶洲(たんしゅう)に向かわせた。亶洲とは海に囲まれた土地で、老人たちの話では、秦の始皇帝が方士(まじない師)の徐福に命じ、子供達数千人を連れて蓬莱山とそこにある魔法の薬を獲りに行かせた。しかし徐福は目的地に着くと、そこから戻ってこなかった。その後彼らの子孫は数万人に増えた。その中には、会稽(かいけい:呉の国の南端の港町)に商売をしに来る者もいる。また会稽から東の海に出ると、たまに漂流して亶洲に流れ着いたりする。しかしそこはとても遠く、衛温と諸葛直は結局辿り着く事が出来ず、夷洲から数千人を連れ帰る事しか出来なかった。(中略)衛温と諸葛直は任務の失敗の責任を取らされて刑死した。」

 という記述があります。徐福に関する正史上の記述は「史記」「漢書」「後漢書」にもありますから、孫権伝はそういった意味では別に初出でも何でもないのですが、面白いのは、孫権がそういった史書中の徐福の記述を真に受けて、大船団を送り出した事ですね。もちろん孫権が生きていた時代には、秦の時代についても我々より記憶は新しかったでしょうし(といっても400年以上も昔なのですが)、徐福について、我々の知らない何らかの知識があったのかもしれない。

 ともかく、孫権は軍隊を送り出しました。何の為に? それについての記述はありませんが、「衛温と諸葛直は結局辿り着く事が出来ず、夷洲から数千人を連れ帰る事しか出来なかった。」と書いてあるのですから、きっと兵隊を集めに行ったのでしょう。この時代、相次ぐ戦乱で中国の人口は極端に減っており、本来の意味での漢族、つまり黄河流域で定住して農耕を行っていたような人々は、後漢末の黄巾の乱(こうきんのらん)で壊滅したという人まで居るほどです。ですから、東の海の向こうに自分たちと同じような言葉を話すかつての同胞の末裔が何万人も居ると聞けば、「じゃあちょっと行って呼んで来い」と思いつく事もあるでしょう。

 それを本当にやらせてしまった(しかも失敗した部下を刑死させた)所が孫権の長生きの弊害というものだったかもしれません。

 さて、この夷洲と亶洲、いったいどこだったのでしょうか。これはもう、諸説紛々、わかりません。何でわからんのかというと、この「会稽の東」という表現そのものが、中国の古代の史書では便利に使われるフレーズだからです。

 呉で孫権が頑張っていた時代、北には曹操の立てた(正確には息子の曹丕)魏の国がありました。そして、同じ「三国志」のうち魏について書かれた「魏書」の中に、例のあれがあるんです。いわゆる「魏志倭人伝」。

 それでね、それでね。「魏志倭人伝」でも邪馬台国の場所を教えるのに「会稽の東」から書き出してるんですよ。

 まあ同じ奴(陳寿)が編纂したんだから、似たようなフレーズ使うのもしょうがないだろって? たしかにそうかもしれん。しかしですよ。話はここで終わらない。邪馬台国の場所がいつまでたってもはっきりしないのも、同じ所に原因がある。要するに、正史だというのに字を書き間違えたバカが居たんです。

 「呉書」では「会稽東治」(会稽の東)と書いてありますが、後の時代に書かれた(後漢末が戦乱の時代だったために落ち着いてそういうものを作れる状況ではなく、「後漢書」が出来たのは「三国志」より後の時代でした)「後漢書」では、同じ徐福についての記述で同じ亶洲を持ち出して、「会稽東冶」(会稽郡の東冶)と書いてあるんです。

 書き間違いですね。線が一本足りない。そう思うでしょ。しかし本当にそうなのか? 恐るべきことに、この頃会稽郡には東冶という土地があったのです。ちなみに会稽といえば今の紹興、すなわち上海の少し南ですが、会稽郡東冶県だと今の福建省福州あたり。距離で400Km、緯度で4度も違う!!!

 「呉書」の記述通り、会稽から東に向かえば種子島があるから、そこが亶洲かもしれない。「後漢書」に従って会稽郡東冶県から東に行ったら、今トレンディな尖閣諸島を経由して沖縄島です。

 なんと出鱈目な。

 しかも、同じ書き間違いが邪馬台国の位置についてもやらかしてある。

 この書き間違い(どう考えてもどっちか書いた奴が書き間違えてるでしょう)のせいで、「魏志倭人伝」の邪馬台国の位置算出のスタート地点が二カ所になってしまい、ただでさえ九州説と畿内説でややこやしい事になっている議論を混乱させているんです。ははは。

 なお、孫権が派遣した船団が実際にはどこへ行ったのかについても諸説ありますが、種子島から三国時代の書体を彫り込んだ貝のペンダントが出ている事から、亶洲を種子島、夷洲は台湾か沖縄だろうという人もいます。九州だったら丁度卑弥呼さんの時代(卑弥呼が魏に使いを送ったのは238年と248年)だったから、あわよくばお会いできたかもしれないのにね。