大事なのは店の外

 こんなニュースが配信されました。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051124-00000051-mai-soci

 日本橋を本拠地としてきた老舗の経営者たちが、日本橋地域を再び一級の繁華街として復活させようという取り組み。たしかにお江戸日本橋と言えば、広重の名画にも描かれた、古い古い繁華街ですからね。そういう土地が新興のターミナル街に負けるというのは業腹なんでしょう。地方の方はご存じないかもしれませんが、日本の道路の全ての基準点となる元標というものが置かれたこの土地、頭上を首都高の高架が覆っていて、不細工なことこの上もありません。

 他に私が知る一国の道路の基準地というと、スペイン王国の首都マドリッドにある「プエルタ・デル・ソル」という広場がありますが(昔ここでスリと喧嘩したことがあります。こないだ友達の旦那でマドリッドの警察官をしている人にその話をしたら、「それは多分北アフリカからの不法移民だね。外見は僕たちスペイン人と見分けがつかないから。僕たちローカルならなんとなく雰囲気でわかるんだけど。」と言っていました)、ここはフェリペ2世によってマドリッドが建設された時に、町の正門である「太陽の門」が置かれた場所でした。その後の都市の発展拡張に伴い、ここは町の中心となっていきます。現在では王宮とプラド美術館のちょうど中間地点になっていますね。昔、プラド美術館があった辺りはただの牧草地(プラド)でしたから、要するに町の範囲がプラド美術館あたりまで拡張されたってことですか。

 最近、スペインで売れまくっている時代小説「カピタン・アラトリステ」でも、この「プエルタ・デル・ソル」界隈はちょくちょく登場しています。主人公の浪人ディエゴ・アラトリステが、悪友たちとツルんではこの界隈に現れ、悪代官の手先なんかと小競り合いを起こしたりしている繁華街という設定ですね。

 現在のプエルタ・デル・ソルは、もちろん頭上を都市高速が走ったりしない、相変わらずの繁華街です。

 話をスペインに飛ばしたついでに、スペインを代表するもう一つの大都市、バルセロナのお話をしましょうか。今でこそバルセロナといえば、ロナウジーニョとエトオを擁してリーガ・エスパニョーラの首位を快調に走る・・・・・じゃなかった、ガウディをはじめとするモデルニスモ建築の世界遺産都市として名を馳せていますが(フェラン・アドリアの主宰する三つ星レストラン「エル・ブジ」も近所ですね)、1970年代にフランコ独裁が終わった頃のバルセロナは、中央に楯突くカタランの都として徹底的に干されてきた、斜陽の地方都市にすぎませんでした。

 ところが、その後の四半世紀、バルセロナは都市デザインの世界で「バルセロナ・モデル」と呼ばれるまでの、劇的な復興を遂げたのです。しかも、先にご紹介した殆どスカンピンの状態から。

 このバルセロナの復興のお話、地区ごとに使われた手法もまちまちで、一つの方法論だけがあったというわけではないのですが、中でも私が一番感銘を受けたラバル地区の復興の物語を紹介しましょう。

 ラバル地区というのは、バルセロナの旧市街を東西に分けるランブラス大通りの東側あたりです。今でもランブラス大通りを含む旧市街の治安は全体に悪く、特にそっち側には「グエル邸より先には日本人観光客は絶対に個人で入るな」と言われているのですから、都市再開発事業が始まる前のラバル地区というのは・・・・・推して知るべしでしょう。ランブラス大通りの西側には大聖堂や旧王宮など、町の中心施設があった関係で、まだしも開けているというのか、観光客が入って良い地域もそれなりにあるのですが(ピカソ美術館なんかもこの一角にあります)、こっち側は昔から貧しい人々の住む地域でしたので、都市全体が貧しくなれば、地域丸ごと荒れちゃうんですね。スラム化してしまう。スラム化すると不動産価値が下がるので、家主は物件のメンテナンスをしない。悪循環です。

 しかし、荒れた地域だと言って放置するわけにもいかない。オリンピックも来ることになったし、なんとかしたい。でも金は無い。

 通常、こういった地域を再開発するのであれば、まるごと重機で粉砕してでっかい更地を作ってからとなりますわね。後にマンション街を作るのか巨大ショッピングセンターを作るのか六本木ヒルズにするのかはともかくとして。日本の開発業者ならそうする。クリアランス型再開発といいます。とにかく上物は邪魔だから全部潰して捨ててしまえ、それで新しい上物を作ったる、という考え方です。でもお金がかかるね。 

 そこで市当局が採ったのは、まさに逆転の発想でした。上物を作るということはしない。それをせずに、町の中でも特に痛んでいて、これはもう直すより潰した方が速いし安いですよお客さんという建物だけを選んで、それだけを解体除去していった。それで空いた土地を・・・・・広場として開放したんです! だって新しい建物を建てるお金なんか無いからね。

 こうして生まれた小広場は、薄暗いスラムに光りを取り入れ、精神的な換気を良くする効果を持ちました。広場に面してバルが開店し、広場に机と椅子を並べました。そうやって、バルセロナ市当局は、地域の中に公共の空間を作っていきました。公共の空間を作ることで、そこを苗床とした地域コミュニティの再生を目論んだのです。もともと、引っ越せるもんならこの地域から出て行きたいけど、そんなお金はどこを振っても出てこないから、しょうがなくこの土地にしがみついているという住人ばかりの地域だったので、ラバル地区の住人たちには、自分たちの地域を愛し、手入れし、慈しむという意識が希薄でした。そんな住人しかいなければ、地域が荒れるのは当然ですわな。市当局の苦し紛れの政策は、この悪循環を反転させることに成功したのです。

 続いて市当局はこの地域にバルセロナ現代美術館や現代文化センターを建設。現代アート系の人ってわりと怖い地域でも平気で入ってきますからね(偏見)。外部から人が入ってくる流れを創り出して、この地域を外部に開かれたものにしていったのでした。

 さらに2002年、今度は住民側からも地域再生の動きが始まります。市当局の政策によって、特に現代美術館が出来たラバル地区の北側はかなり環境が改善したのですが、それで上がった家賃に追い立てられた人は、今度は地区の南側に集まり出しました。ラバル地区の南側は、北側が背負っていたものまで押しつけられる結果になったのです。このような現状をなんとかしようと立ち上がったのは、レストランの大将や地元の商店のオヤジさんたちでした。オヤジさんたちは「トット・ラバル」と名付けられたNPOを設立し、この地域内に放り込まれた雑多なカオスを解きほぐしていったのです。

 例えば様々な国々からの移民たちが、この地域に流れ込んできていますから、そういった移民のコミュニティに声をかけて、それぞれの故郷を紹介するイベントを開いてもらう。街角でお国自慢スープ大会なんてのもあったそうです。あるいは、失業中の若者を雇ってラバル地区の現状把握の為の社会調査をさせる。職業訓練も兼ねているんですね。さらにはこの地区で活動する各種のNPOと営利企業の提携を仲介して、ラバル地区の中で問題を抱えているコミュニティが健全な経済活動に関われるよう、誘導していく。

 このような「トット・ラバル」の活動の基本は、とにかく自分たちの地域を知ることなんだそうです。ラバル地区を愛する人たちが、自分たちの住む土地について学ぶことで、地域を再生していく。おっと、こんな話、最近も書きましたね私。

 要するに、そういうことですよ。日本橋の旦那方もね、まずは日本橋という土地について、ソロバンを仕舞った上で虚心坦懐に学んでみるのが良いんじゃないでしょうか。そして、客の入る施設をいかに作るかではなくて、店と店の間にある空間、すなわち公共の空間を手入れして、居心地を良くしていくことです。

 違いますかね?