知床が世界自然遺産への登録適当という推薦を得たんだそうです。
まずは目出度い。ですが、羅臼町の町長さんのコメントを見て、おやっと思いました。
「道路網の整備など、国や道への要請を積極的に行っていきたい。」
有名な話ですが、知床半島というのは道路が先端まで付いていない。だから人間が入り込めない。だから自然が残っている。一般的にはそのように理解されていますね。
羅臼の町長さんの発言の真意は良くわかりませんが、もしも世界遺産登録を機会に半島の先端まで道路をつけて、観光客をドーンと呼び入れたいというのでしたら、私は全く賛成できません。先日は屋久スギの樹皮をハイで持ち去った馬鹿者がおりましたが、観光客がわんさか押し掛ければ、どうしても環境負荷がハネ上がるからです。
例えば、白神山地は緩衝地域と核心地域というものがあり、観光客が入り込めるのは緩衝地域まで。もちろん知床にも核心地域と緩衝地域は設定されるようですから、私の杞憂は杞憂のまま終わるはずです。それを心底願っています。
ところで、「天使の分け前」とか「神様の取り分」という言葉を聞いたことがありますか?
これはウィスキーの醸造職人たちが使う言葉で、蒸留を終えて樽詰めされたウィスキーから毎年揮発して減っていく、およそ2%のことです。1年で2%ですから、6年もので12%。12年もので24%。30年ものだと、なんと6割も目減りしてしまうわけです。
こいつは痛い。倉庫に寝かせておくだけで在庫として税金や倉庫代がかかる上に、その中身は毎年減っていくんだから。でも、こうやって天使や神様に毎年お布施を差し出すからこそ、ウィスキーの味は旨くなっていく。
もしも、「天使の分け前」「神様の取り分」をケチって、ガラスやチタンのタンクにウィスキーを貯蔵したら、どうなるのでしょうか? それをウィスキーと呼ぶのかという根本的な疑問もありますが、少なくとも私たちが楽しんでいる、あのウィスキーのあの旨さは、酒に宿らなくなるでしょう。
現代社会は概ね「貰えるものは全部貰う」「取れるものは根こそぎ取る」という「総取り」を美徳として動いておりますが、その美徳はきっと自然相手には通用しないと思うのです。敢えて全部根こそぎにしないで、「神様の取り分」を残しておく。そうすれば、神様はまた私たちに、自然の恵みをプレゼントしてくれる。近代以前、多くの民族がそのような形で神様との関係を取り結んでいました(オセアニアでは資源を根こそぎにしてしまった民族も結構おりますが)。北海道島の先住民の方々にも、たしかそのような思想は受け継がれていたと記憶しております。
知床半島に「天使の分け前」あるいは「神様の取り分」をいかに残し、また知床半島の人々はいかにして知床半島を手入れしながら暮らしていけば良いのか。そして知床半島を見せていただく私たち外部の人間には、どのようなマナーが望まれるのか。
ちなみに知床で環境に配慮したサスティナブル・ツーリズムに取り組んでおられる藤崎達也さんは、このように書いておられます。
「いくら自然保護地域だからといって観光地としてお客様を気持ちよくもてなす役目を担う地元として、自然保護行政が行いがちな失礼な入域制限があってはならないと思っています。」
う~ん、どうでしょうか。私個人は、外部の人間が入ってはならない場所はあって当たり前だと思いますし、いくらお金を出しても絶対に手に入らないものが世の中にある方が健全だと思うのですが、かといって人間は商売をしなければ生計が立ちませんから、地元の方としては、自然保護の原則論に固執してばかりはいられないという事なのでしょうか。藤崎さんは経済にも明るい方ですから、どんな立派な思想もお金が回らなければ枯れてしまうという資本主義社会の鉄則に気づいておられるのでしょう。自然保護と観光客誘致をどう両立させるのか。藤崎さんたちの解答に注目したいですね。
ともかく、私たちとしては、まずは地元のみなさんの議論が済むまでは、おとなしく待っているべきでしょう。わくわく。
追記:藤崎さんのコメントがアップされたのでリンクをつけます。
http://shinra.upper.jp/blog/archives/000420.php
私waka moanaの中のひとが関わっているフィールドでも、ネイティヴが行政の意志決定から疎外されてきた歴史があり、この10年間で色々と問題になっているのですが、先住民の権利や立場や知識について、行政との関係を適切に調整していける人材の育成は、これからの日本の課題の一つでしょうね。
私はポストコロニアルの尻馬に乗っているだけの学者は大嫌いなのですが、ポストコロニアルの考え方には傾聴に値する部分もあるし、ポストコロニアルやマイノリティ研究も踏まえた上で、きちんと金勘定をして現実的な落としどころを見つけていく事は大切だと思っています。