陸カヌーの誘惑

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 ここしばらく、自転車を乗り回しています。古い古いロードレーサー。フレームは今時珍しいクロモリ(クローム・モリブデン鋼)。細かい部品も軒並み骨董品。変速機とかギアとかとかその辺り、ざっと18年前の品ですよ。

 自転車マニアの世界では、そういった細々とした艤装一式を「コンポーネント」略してコンポと呼びます。そして、自転車というのはいくつかの規格に従って製造された部品を寄せ集めて出来ているので(言い換えれば、ある自転車専用に設計生産された部品はフレームだけなんです)、ネジ穴やサイズさえ合えば、自由に組み替えることが出来る。数日前に話題になった某中年ロックンローラーの自転車もそう。ロックンローラー氏の体格に合わせて特注というか手組みされたフレームに、色々と高価な市販部品を装着して出来ている。あの車輪だけで数十万円という世界です。きっとホノルル・センチュリーライドに出ている自転車の中でも飛び抜けて高いと思いますよ、あれ。

 ただ、面白いところは、今や値段も付かないような私のポンコツだろうと、ロックンローラー氏(自称)160万円の自転車だろうと、走って曲がって止まるという機能は同程度に満たしているってとこですね。160万円の自転車でなければ走れない場所というのは無い。そして、160万円の自転車についている部品の殆どが、私のポンコツにもくっつくわけですよ。

 こういった自転車の特性に気付いたのは、高校に入ったくらいだったですかね。そこらに捨ててある自転車のような物体を拾ってきては、使える部品を組み合わせて、自転車にしていく。工具さえあればどうとでも出来ますから、安上がりの遊びですよ。それで作った自転車に乗って、どこへでも出かけていくんです。重いギアをガシガシ踏んでいたんで、履けるジーンズがどんどん無くなって困りましたよ、あの頃は。太股がどんどん太くなっていくんです。

 大学に入ってからは、東京ってやたらに電車が走っているんで、自転車って全く必要無くなりましたし、自動車に乗るようになってからは、さらに自転車から遠のいてしまいました。けれども、だいたい15年ぶりくらいかな、久しぶりに真面目に自転車に乗ってみて、自分がかつて自転車大好きだったのを一気に思い出しましたよ。

 考えてみれば、私にとって、自転車というのは世界観の一大変革をもたらしたツールでした。それまでは歩くだけで、せいぜい家の周り半径数百メートルしか知らなかったのが、自転車に乗ることで、一気にそれが数倍、数十倍に広がるわけです。自転車で走り回ることで、どんどん自分の住んでいる町の空間配置がアタマのなかに入ってくる。つまり自分と世界の関係がこの時にガーンと変わったんですね。高校生の頃には、自転車さえあればどこまででも行けると思ってましたから。世界の果てまでも、行けというなら行ってやらんでもないぞと。

 そんなことを思い出しながら多摩川を流しているうちに、私、思いましたよ。南の島のカヌー乗りたちもこれと同じなんじゃないか。奴らは家の周りに海があるからカヌーに乗るだけで、家の周りがずっと陸地なら、奴らは自転車に乗るんだろうと。実際、十河学さんのお話では、マーシャル諸島の子供たちなんかは物心がつくと、てんでにカヌーを造ってそこら辺を漕ぎ回っているんだそうです。

 カヌーは海の自転車。モーターボートは海の原付か軽トラ。

 便利なのはもちろんモーターボートや原チャリでしょう。でも、オギャアと生まれてきた子供が、移動という行為そのものの持つ醍醐味を最初に味わうのは、これからも自転車でありカヌーであり続けるんじゃないでしょうかね。自分の住処から離れていくことへの不安。次々に未知の世界が姿を現す高揚感。ね。思い出してくださいよ。最初に自転車を手に入れて、一人でどこかへ行ってみようと思いついた時のあの感じ。

 古代のポリネシア人やカロリニアン、あるいはそれ以前のラピタ人や漂海民が航海カヌーに乗って次の島を目指したのは何故なのか。色々と理由は推測されていますけれども、その原点にあったのは、私たちが子供の頃、自転車に乗って隣町を目指したのと同じ感情だったんじゃないですかね。説明しろと言われても困ってしまうような、体が勝手に自転車漕いでたんで、みたいな。

 つまりね、はっきりした理由なんか無いってことですよ。おそらく。