何かの未解決の課題について、専門家よりは少し離れた場所にいる人の方が、解決策を思いつきやすいという側面はある。岡目八目というやつである。
だがプロ棋士の対局を素人が岡目八目で読んで勝ち筋が見えることは少ないだろう。
誠実な専門家は岡目八目の限界を知っているから、安易に他分野の解決策について「こうすれば良いのだ」と断言したりはしない。
ところがたまに、人間性の問題なのかそれ以外の問題なのか、ある分野では専門家としてそれなりに評価されているのに、他分野についていかにも専門家のような顔で口出しする人が現れる。
こういう人は自信満々なので、他分野の問題についても自信満々で断言出来てしまう。
こうした岡目八目勘違い系専門家の分野跨ぎ断言は、マスメディアやSNSで衆目に触れると、わかりやすい上に大衆にはその人物が何の専門家なのか見えづらいので、大受けする。
昔なら内田樹。
今は新井紀子。
今は新井紀子。
(古市憲寿は何の専門家でもないです)
ただ、彼・彼女だけが岡目八目勘違い系専門家なのではない。
例えば今、プログラミング教育ブームなので、教育についてはド素人なプログラマたちがSNSで景気よくプログラミング教育について断言している。あまり拡散はされないのがせめてもの救いだが。
自分は大学で1年生相手の基礎演習を受け持っていたとき、まず教えたのが「信頼出来る専門的言説の見分け方」だった。
すなわち
・博士号を持っているか
・その博士号の分野と同じ分野の言説か
・その博士号の分野での実務歴はあるか
・発表された時期はいつか
・出典一覧や文献リストはきちんとしているか
・その博士号の分野と同じ分野の言説か
・その博士号の分野での実務歴はあるか
・発表された時期はいつか
・出典一覧や文献リストはきちんとしているか
これに従えば内田樹は博士号未取得、実務歴はフランス文学なので、フランス文学についての彼の言説はまあまあ信用出来るが、それ以外は切り捨てるべきということがわかる。
新井紀子は数理論理学で博士号を取った後に何故か数学教育の共著論文ばかり書き、その後は東ロボである。つまり山月記や国語科教育については岡目八目勘違い系なのだ。
もちろんある分野の専門家が他分野の課題について何か発言することは基本的には良いことなのだが、あくまでも学際領域における一分野の専門家としての発言であって最終解答にはなり得ないということを、読み手の読解力に期待するのではなく自身の発言の中に明示的に記述しておくのが専門家としての良心のあるべき形と思う。
そして、これはあくまでも個人的経験の範囲内だが、課題解決に腰を据えて取り組めば取り組むほど、万能薬など存在しないし、ステークホルダー間の信頼関係の構築が重要であることが実感される。景気のいい放言など出来なくなる。自称失敗経験の無いプロマネの新井紀子は本物の神なのか単に鈍感なのか。