親として新井紀子の「読解力テスト凄い&AI怖いかもしれないよ」キャンペーンをどう考えるか

小学生を育てる親として、新井紀子の読解力本の主張をどう消化するつもりかもついでに書いておきます。
【読解力テストを受けさせたいか】
指導要領に基づく教科書の内容をどれだけ知識・技能として持っているかのアチーブメントテスト(この場合は学校における定期考査)でモニタリングは十分と考えます。義務教育のイシューはそこだからです。

その考査において到達度が不十分と判定された領域については個別に内容を精査し、適切なパッチの当て方を個々の児童生徒の特性を考慮しつつ決定・実施します。
新井式読解力テストが測定する能力と教科学力のスコアは擬似相関の可能性が大きいと個人的には推測しています。すなわち、本来なら真理値表で表さなければ正しく把握出来ないような複雑な事象を自然言語に落とし込んだものから、真理値表を使わずに元の内容を復元出来るような能力を持つ児童生徒が新井式読解力テストでは好成績を出すはずで、その能力のある児童生徒ならば他の教科学習でも好成績であるのは当たり前だということです。
であれば、ある児童生徒のアチーブメントの良し悪しを見るのはアチーブメントテストが適しており、アチーブメントの改善には個々の学習単元におけるつまづき部分を特定して個別対策を打てば良いだけであって、読解力テストは不要となります。
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このツイートでは、入学した高校の入試難易度と読解力テストのスコアに強い相関があったという事実から、何故か「中学3年のリーディングスキルテストの能力値によって進学出来る高校の偏差値がほぼ決定されます」という命題が導かれています。予測ではなく決定と言っています。

しかし、これは相関と因果関係を分けていないと思います。
中学時点での新井式読解力テストのスコアから、入学しうる高校の難易度を高い精度で予測は出来るのでしょう。ですが、だから読解力テストのスコアを中学校の間に上げておけば良いというのは、論理が飛躍しています。入試難易度が高い高校に入りたいのなら入試で必要となる教科学力を獲得しておく必要があり(だってRSTで入学者選抜をするんじゃないんだから)、そのためには先述の通り、個々のアチーブメントの丁寧なモニタリングと丁寧な課題抽出、要素分解そして対策というのが本筋です。
難しい高校に入りたければ(私が経営する会社が提供する)読解力テストのスコアを上げましょう? 
おい。
研究者にしちゃあ営業きつくないか?
【AI時代に稼ぐ力をどう身につけるか】
AIが人間より上手くこなせる仕事の領域はこれから確実に増えていきますが、AIが扱えるためにはその対象がデジタルデータになっていなければいけません。だから書類やデータ処理ではAIは圧倒的に強いし、既に人間は勝てない。
一方でマテリアルハンドリングやランダムなアクシデントが常に起こるマルチタスク業務は苦手です。マテリアルハンドリングについては、AI処理で採算が取れるような巨大産業分野(自動運転、倉庫内ピッキング、皿洗いなど)はともかく、多くの産業では汎用デバイスを一部の「AIが得意な箇所」に使うという形になるでしょう。そのAIと協調して業務を進めるのがこれからの人間のお仕事です。コンビニ店員がまさにそれです。
となると、総論としてはAIをそこまで恐れる必要はないはずです。その上で、こういう人はちょっと多めの給料もらえるはずというのは
・業務におけるイシューの設定が上手い
・課題解決のための要素分解が上手い
・ICTデバイスの操作やセッティング、カスタマイズの知識がある
・異文化や外国人への偏見や差別心を持たず、多種多様な人材の協調のハブになれる
・日本語を母語としない人、ハイコンテクストな発話の理解が苦手な人に、適切な情報伝達が出来る
この辺が備わっている人は確実に引っ張りだこになるでしょうね。ちなみに早稲田大学理工学院講師の斉藤大輔さんに伺った話では、小学校でのプログラミング教育を8回やる前後で測定した時、要素分解能力が最も伸びていたそうですよ。イシュー設定能力を最も確実に身につけられる教育は私は卒論指導だと思います。ICTデバイスへの慣熟はやはりプログラミング教育も有益かと思いますね。
それ以外には
・犯罪をしない
・いきなり音信不通にならない
・ハラスメントをしない
・マウンティングをしない
これだけでも御の字なんじゃないのかという気もしますよ。
【いまどきここまであからさまな偏差値ランキング信奉者というのも痛い気が】
一番の問題はここです。新井紀子の言説は、ある学校の入試合格者の集団が入学試験の共通模擬試験(特定の学校の入試を想定した試験ではなく、あらゆる学校の受験者が共通内容で受ける模擬試験)を受けたと仮定した場合に、その点数がどれだけ平均点からズレているかを、「(得点 - 平均点) ÷ 標準偏差 × 10 + 50」の計算式で算出した数値がより大きな学校に入学することに価値があるという前提を素朴に受け入れています。
 通俗的な表現をするならば「より偏差値が高い学校に入ることに価値がある」という思想が根底にあるわけですね。
 確かに学部新卒の新入社員採用プロセスであれば、「より偏差値が高い学校の卒業生」が「より初任給や平均給与の高い企業」に採用されやすいのは事実です。
 とはいえ、立教大学の教え子100人以上のその後を見てきた限りで言えば、職業人として幸福になるかどうかは給料の高い低いよりも職場との相性や出会いの占める割合が圧倒的に大きくて、三菱重工や川崎重工に総合職で入ったけどすぐに辞めちゃった教え子もいるし、中堅SIerからスタートアップに移って仕事楽しんでる教え子もいるし、中学教員からマーケティング・リサーチ会社に転職して生き返った奴もいるし、リクルートから物流子会社に転職して生き返った奴もいるし。ホント色々です。
 一つこれは確かだと私が感じているのは、世間的なブランドに惑わされずに、自分のやりたいことや自分が好きなコミュニケーション形態、自分の求めるライフスタイルを目指した人の方が幸せになっているということ。
 であれば、より高い偏差値の学校に入るための勉強をしようという思想そのものが、少なくとも親としての私には無価値です。