シラーの「美的教育」論とマスカット・オブ・アレクサンドリアの安全な食べ方について

今朝がた、マスカット・オブ・アレクサンドリアの見た目の美醜に関する少し長めのエントリーをフェイスブックにアップしたところ、通りがかりの方より、汚いものよりは綺麗で心動かされるもののほうが良いと思うというご意見をいただきました。
 
この方の立場は、フリードリヒ・フォン・シラーが1793-94年頃にゲーテとの文通に想を得て書き記した一連の文章(邦題は『人間の美的教育について』)に近いものです。シラーはフランス革命直前の激動のヨーロッパで、国家などの力によらずしていかに市民が自らを道徳的に高められるかを考え、第一級の芸術作品の中に見出だせるような普遍的な美をその拠り所にすべきであると考えました。
 
シラーのこのような考え方は、基本的には間違っていないと私も思います。ただし、シラーが念頭に置いていたようなもの、例えば古代ローマの彫刻のみを美とするような理解は、21世紀の今日では通用しないとも考えています。
 
シラーが上記の文章を書いた直後に始まったフランス革命そしてナポレオン戦争において、国民皆兵という制度が初めて大規模に整備されました。つまり戦争がプロとプロの出入りにとどまらなくなった。そして芸術分野ではゴヤが連作「戦争の惨禍」(1810-20年)でおそらく初めて、神話ではなく現実の残虐行為を具体的に描写した作品を作ります。19世紀後半には戦場の死体の写真が撮影されて流通し、20世紀には水俣病患者の姿を写したユージン・スミスの作品などが多くの人の心を打つようになりました。
 
その間、戦争の技術は更に過激化し、第一次大戦では戦車に毒ガス、第二次大戦では航空機や核兵器、さらに現代ではBC兵器や対人地雷、子どもを使った自爆攻撃、残虐動画のyoutube投稿というところまで戦争のエクストリーム化が進行しています。
 
一言で言えば、シラーが考えていた時代より世の中の殺戮テクノロジーは遥かに進歩し、国家による残虐行為の規模も手段も圧倒的に洒落にならなくなった。そんな時代に、シラーが考えていたようなシンプルな美醜を基準に物事の良し悪しを判断するという考え方は。
 
個人的には、賛同出来ませんし、現代の美術界もそんな段階ではないです。もう100年も前からアートは自己を含めたそれまでの世界への批判的な思考をビルトインしなければ評価されなくなっています。美醜に代わって批判的思考の鋭さや深さが芸術作品の価値を決めるようになっている。
 
ですから、我々は美学史と戦史に学び、一見綺麗なマスカット・オブ・アレクサンドリアの房も、もしかしたら変な薬品が付いているかもしれないので、食べる前に洗いましょう、そういうワンクッションのある視野を持ちましょうというのが私のご提案でした。
 
こうした歴史的深度のある人間理解を提供するのが人文学であり、私も最近知ったのですが、ケインズとシュンペーターとハイエクの学説の対立の根底にあったのも、これら偉大な経済学者たちの人間理解の仕方の差異であったとのことです。
 
このように、安全にマスカット・オブ・アレクサンドリアをいただくためにも人文学の素養は大事だよなあ、人文系に限らず大学で身に付けておくべきだよなあと私なんぞは思うのです。恥ずかしながら私自身、そこにたどり着く以前の基本的スキルや知識を教えるのに精一杯で、人文学の本丸を教える時間はほとんど持てなかったのですが(だよね?)。
 
私が今、卒業生たちからの様々な相談に対して、人文学的な地点からスタートした丁寧な説明を心がけているのは、(しばしば「結論を先に言って欲しい」と文句を言われますが)、ある種の補講なのかもしれません。
 

なお、マスカット・オブ・アレクサンドリアの旬はあと3ヶ月ほど先となります。待ち遠しいですね。

 

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