正論を叩きつける権利は常にあるけれども、そのリスクに見合うメリットについては慎重に判断すべきと思う

最近、正しさということについて考えさせられる経験が幾つか立て続けにやって来ましたので、結果として考える羽目になったことをまとめておきます。

世の中には何が正しいかを決める伝統的な手段が三つあります。法と科学と宗教ですね。生命や財産に関する揉め事に正しい裁定を提供するのが法。自然の成り立ち仕組みの正しい解釈を導き出すのが科学。人の正しい生き方、正しい死に方のガイドラインを提供するのが宗教。

また、これに近いものとして、目的を持つ組織におけるミッションステートメントというものもありますね。ある組織内での意見の相違を収拾する際に基準とすべき文書。

とはいえ、こんな大きな案件の正しさ以外であれば、正しさを導き出す統一された手続きというものは無くて、各個人が自分なりのやり方で何が正しいかを決めているのが実情です。

私の感情に対して正しいか否か。私の友人仲間の視線に対して正しいか否か。我が社の商売のやり方に対して正しいか否か。

特に人と人が関わりあう場での正しさなどは、人の数だけ存在するんでないかと私は考えています。ある案件が誰にとっても100%の満足とはいかなかった時というのは、すなわち各自の正しさが一定レベルで毀損された状態で終わったということです。正論と正論がバッティングする展開。

ですが、私は「正論の押し付けはいけない」なんてことは申しません。
自分の正しさを目一杯相手にプレゼンしたければしたって良いのです。
その権利は誰にでもある。言論の自由ですから。
私の思うところ、あなたはこうすべきであった何故ならば私が信ずるこの基準と指標に照らすとあなたの行動はこのような理由で最善ではなかったからである。
なんて具合に、言いたいだけ言って良いんですよ。

でも、言わない選択肢もあることは憶えておいた方が良いかもしれない。
大概のケースでは相手にも相応の正しさがあります。それも憶えておいた方が良いでしょう。

自分の正しさを全部出しきった結果、相手が黙って頭を下げて立ち去ったら、それはかなりの確率で、「こいつとは相互理解が成立しないからもう良いや黙ってカレーぶっかけられとけ」と見切られたということなのです。いや、見切られたくらいならまだマシで、いつか同じ目に遭わせてやるからなと心に誓われていたりすることもあります。

個人的な感覚でのソリューションになりますが、激情にかられて相手の面目立場感情等々を全面的に破砕してしまいますと、遺恨は残りますしご自身のお値段も下がるので、ほどほどにしておくのが良いんじゃないかなあと。