太田好信『亡霊としての歴史』

 かなり育児に余裕が出てきたので、こういうちょっと堅い本も躊躇無く手を出せるようになりました。息子が現役バリバリの2歳児だった頃には考えられないことです。あの頃は、時間的余裕はあっても脳が疲労困憊していて漫画しか読めなかったもんな。

 著者の太田好信さんはグアテマラをフィールドとする文化人類学者で、特にマヤ系先住民が興味関心の中心のようです。これまでにも『トランスポジションの思想』『民族誌的近代への介入』など、ポストコロニアリズム以降の文化人類学の位置づけを考える本を出している方で(たしかどちらも読んだことがあるはず)、今回もその延長線上にある一冊でした。

 タイトルの意味を要約するならば、要するにコロニアリズムの時代に行われた様々な行為行動(先住民虐殺や先住民文化の抑圧、先住民の文化遺産の博物館への収蔵、先住民を対象とした民族誌の作成などなど)の影響は今だに続いており、それらは現在を生きる人々が「決着がついた」と思いこんでいたとしても、様々な形で、あたかも亡霊のように蘇ってくる・・・・ということです。

 私の興味を特に惹いたのは、先住民によるアイデンティティ・ポリティクスを巡る考察ですね。アイデンティティ・ポリティクスというのは、簡単に言えば「先住民やマイノリティが自身のアイデンティティを再構築し、それを外部に向けて発信していくことで、自身の権利回復や権利獲得を図る活動」です。ハワイ先住民による航海カヌー文化復興運動もその典型です(私も日本のろう者コミュニティのアイデンティティ・ポリティクスの功罪について論文を書いたり学会発表をしたりしたことがあります)。

 アイデンティティ・ポリティクスを巡っては、その過程で先住民コミュニティが歴史上の事件の恣意的な解釈を行ったり、科学的に実証出来ないような物語を事実として語ったりというようなことがどうしても発生するので、それに対して研究者からの一定の批判がなされてきました。また、アイデンティティ・ポリティクスの結果、先住民コミュニティの中でもより「真正な先住民」とそうでない者、先住民と認定されなくなってしまう者などが発生することもあります。場合によってはアイデンティティ・ポリティクスが新しい対立関係や憎悪を生み出すこともある。そういう、分離的な性質にも批判がある。

 これに対する太田さんの立場は、意外なほどアイデンティティ・ポリティクス擁護なのですね。正直、驚きました。ただ、太田さんが先住民によるアイデンティティ・ポリティクスの功罪を語る時には必ずグアテマラのマヤ系先住民という、つい最近まで相当に酷い目に遭っていた方々を念頭に置いておられるようです。ここは注意が必要ですね、この本を読む際には。先住民によるアイデンティティ・ポリティクス一般についての批判的言説を紹介した後に、「でもグアテマラのマヤ系先住民には他の手段が無いんだからしょうがないじゃないか」と続く。それで沖縄の話が締めとして紹介されたりする。アイデンティティ・ポリティクス一般についての論なのか、グアテマラのマヤ系先住民という特定の状況についての論なのか、どっちつかずになっている。

 ちなみに私は、先住民によるアイデンティティ・ポリティクスは大いにやるべし派だし、ホクレアの事例を様々に考察してきた結論として「ニセモノや寄せ集めの素材に本物の魂が宿ることもある」と認識しています。だから歴史の恣意的な読みもオッケー。ただし、憎悪や対立の再生産を引き起こすようなものは駄目です。止めた方が良い。そういう立場。

 もう一つ興味深かったのは、文化人類学者が同時に調査先のマイノリティの政治運動のサポートや宣伝役をやるべきかどうかという議論です。太田さんはこの問題については、断固否定的ですね。そういう活動を文化人類学者の免罪符にするなと。ま、私が研究してきた日本のろう者コミュニティについても、文化人類学者や社会学者や言語学者のガーディアンが何人か張り付いていて正直どうかと思っていましたけれども、最近はですね、もうやりたきゃやれば良いじゃないかと割り切るようになりました。

 5年とか10年程度ならガーディアン研究者がアイデンティティ・ポリティクスへの批判言説潰しをしたり、特定の主張の流通量をどかんと増やしてアイデンティティ・ポリティクスの後押しをしたり(そして事実と論理で論破されそうになると「名誉毀損で訴える」と言い出したり)という感じで、影響力を発揮出来ることもありましょう。でも50年も100年もの間、ガーディアン研究者がマイノリティ集団をガードし続けることは絶対に出来ない。より大きな視点から見れば、歴史の流れは然るべき方向に流れていく以外に無い。そう感じています。

 話を戻してこの本。なんだかとっちらかってる印象強くて初学者には薦めませんが、文化人類学とポスコロのドツキ愛問題を取り敢えず理解している段階の方ならそれなりに楽しめると思います。