Foe most of us, there is only the unattended moment, the moment in and out of time,
The distraction fit, lost in a shaft of sunlight
The wild thyme unseen, or the winter lightning,
Or the waterfall, or music heard so deeply
That it is not heard at all, but you are the music
While the music lasts.
私たちには、時の狭間を出入りする忘れ去られた刹那があるばかり
楽しみとは一筋の陽光の中に消えるもの、
目端をよぎる野生のタイム、
冬の雷光、滝の音
あるいは意識にも上らない音楽
聴かれる事のない音楽
しかし音楽が流れ続けている限り、我々こそが音楽そのものなのだ
(Thomas Stearns Eliot “The Dry Salvages”より抜粋・拙訳)
高村さんの死は青天の霹靂でした。何度かお会いして話をしたこともあり、高村さんの文章を私の論文に引用させていただいたこともありました。高村さんはおそらく生まれた直後から重度の聴覚障害者でしたが音楽が大好きで、聴覚障害者ならではの音楽文化を育てようと、日本列島という枠を越えて精力的に取り組んでおられました。
最後まで高村さんは周囲に笑顔を見せて逝かれたと聞きました。一昨年に来日公演をした手話ミュージカル「The Big River」の主役で、やはり聴覚障害者のタイロン・ジョルダーノさんも病床に駆けつけたといいます。
私たちが失ったものは本当に巨大なのですが、高村さんの薫陶を受けた方々は、みな悲しみの底にありながらも、異口同音に、彼女の遺志を受け継いでいくことを誓っておられます。彼女の遺産は決して失われないでしょう。
さて。冒頭に訳出したのは、T・S・エリオットという詩人が書いた「Four Quarters」という長編詩の中の一遍、「The Dry Salvages」の一節です。ここでエリオットは、たとえ聴かれることが無いとしても、そこに音楽が流れている限り、その中にいる私たちもまた音楽なのである、と書いています。たぶん。
高村さんの笑顔、身のこなし、コケティッシュな手話表現はまさに音楽そのものでした。おそらく音楽とは聴くとか聴かれるとかいう以前に、私たちの身体すべてを巻き込んで存在するものなのでしょう。カラダそのものが音楽化する。例えば先日NHKで放送されたドキュメンタリー「鄭和」には、中世イスラム世界の航海者たちが、航路の情報を詩編として口承し、また書き留めていたことが示されていました。
航路の情報を詩編に詠う。それってミクロネシアの「星の歌」と同じじゃないですか。あるいは川田順造さんが『声』で書いておられる、部族の歴史を長大な歌にして記憶する神官。源平の争乱を「平家物語」という詩編にして語り継いだ琵琶法師たち。
大事なことは歌にして憶える。音楽化したカラダを利用する。それはホモ・サピエンスなら普通に思いつく、効率的なやり方なのかもしれません。