「アサヒカメラ」の8月号に石川直樹さんの対談が掲載されています。掲載誌からして、「写真家・石川直樹」に焦点を当てた対談ではあるのですが、後半はやはり航海カヌーや航海術の話になっていました。結構面白かったのが、石川さんが自分を文化人類学と写真家の間の存在であるとした上で、「学者や研究者ははなから対象の中には入ろうとしない。入るにしてもそこから出ていく道を用意している」と指摘して、どこかあるフィールドに入る体験そのものを通して変化していくことを目指す自分とは、そこが違うと分析しておられた部分。
こうやって概要を書くと、いかにも「だから研究者は駄目だ」みたいなことを言っているように見えるのですが、そうじゃないんですね。それは良い悪いの問題ではなくて、そういう客観性を持っているということが研究者の長所でもあり、そうでなければ研究者として成り立たないということを石川さんはちゃんと理解した上で、自分はその枠からはズレた存在だと言っているだけなんです。
へえ、と思ったのは、今石川さんが書いておられる博士論文を仕上げた後にはどうするかという話で、やはりフィールドに出るような方向性を考えているけれども、特にエクストリームなものを追求するつもりはないと。例えば東京にだって興味深い対象は沢山あるから、そういうものを見ていくかもしれないと。
以前から石川さんがエクストリームなもののエクストリーム性自体には全く価値を置いておられないことは分かっていましたけども、海、航海術というキーワードをさらにディープに追求していかれるのかと思っていたので、これは少し意外でした。
石川さんの博士論文のテーマは「群島性」、だそうです。島々が連なってあるということは、いかなることなのかを考えておられるようですね。最近はネシアの思想の先駆者としての島尾敏雄さんの足跡を尋ねて奄美にも足を伸ばされたとか。ちなみに私は、もちろん群島性という概念は重要だと思っていますけれども、それをいかにして現在の日本のフツーの人々の生活に寄与しうる思想に発展させるかは、まだまだこれからの課題だと思っています。例えばヤポネシアという言葉がある。島尾敏雄さんの考えた概念で、群島としての日本という意味です。領域国家としてではなくね。
その言葉、その着想は良いんです。ですが、そこからより具体的・建設的な方向に思想を深化させた人はいるのかと考えると、あんまり思いつかない。琉球系ポストコロニアルの人たちがファノンとかギルロイとかを沢山引用して、何かよくわからないことをよくわからない(ギョーカイの隠語バリバリの)文章で書いていたなあ、くらい。それじゃ駄目なんじゃないか。そこら歩いてるおばちゃんつかまえて、「ヤポネシア」という言葉を使うとこんな良いことがあるということを説明して、すんなりわかってもらえるくらいに、この言葉の可能性を考えて考えて考え抜かないといかんのじゃないか。敢えて「ヤポネシア」という言葉を使って何か言いたいのであればね。
私自身は、日本列島人に(本州島人や九州島人、北海道島人など大きな島の住民も含めて)、「自分たちは島民である」「自分たちの住んでいるこれは島である」ということを、体で分からせるような実践が出来たら面白いなと妄想しています。
現在のところ、日本列島が島であること、一番大きな本州島まで含めて島なんだということが日常生活の中で浮上してくるのは、他人を「島国根性」という(よく考えると意味不明の)言葉を使って非難する時くらいでしょう。しかし、そう言っている時の煽り手のアタマの中に、果たして「島に住む」ということの意味はどれほど深く了解されているのでしょうか。きっと何も考えていないと思う。だってハワイ州だってニュージーランドだってイギリスだって島国だぜ。ミクロネシア連邦の人に「島国根性」と言って煽ったとして、相手はそれを煽りと思ってくれるでしょうかね。「Islanders' spirit? Oh, yes, We are Islanders!」なんて喜ばれちゃうんじゃないですか? つまり「ヤポネシア」がフォースのダークサイドに落ちたみたいな概念としての「島国根性」も、実は言葉の響きを消費しているだけであって、その意味するところは誰も深く考えていないんですよ。
日本列島が島であることについて、もっときちんと考える。その為のきっかけ、あるいは一つの解答例を石川さんが出してくれるのではないか。私は大いに期待しています。