石川直樹さんの新著『いま生きているという冒険』(理論社)を読みました。
最初に書いてしまいますが、これは名著です。
本書は、石川さんがこれまでに経験して来られた様々な旅の中から、エポックメイキングなものを特に選んで、その想い出を語るという体裁になっています。まずは石川さんが高校2年生の頃(私が大学の学部を出た年だった!)にタイ、インド、ネパールを放浪した旅。次に、ユーコン川の単独漕行。北米最高峰デナリ山登山。ヨーロッパ最高峰エルブルース山登山。アフリカ最高峰キリマンジャロ登山。北極から南極までを人力で半年かけて移動した「Pole to Pole」プロジェクト(最近、プロジェクトが再始動したようです)。南極最高峰ビンソンマシフ山登山。南米最高峰アコンカグア山登山。世界最高峰チョモランマ登山。
かくして地球縦断と7大陸最高峰制覇を成し遂げた石川さんは、続いてマウ・ピアイルック老師に弟子入りする為、ミクロネシアを目指します。ヤップ島で老師の消息を探り、サイパンで念願の弟子入り。シミオン・ホクレア号でサイパンからサタワルまでの航海を経験します。
でもまあ、ここまでは私にも何とかついて行けましたよ。私の学生時代にだって、タイ・インド・ネパールのバックパッカー御用達3点セットを放浪してきた奴もいたし、ユーコン川を漕いで来た奴、スリランカで宝石を掘ってきた奴もいました。航海カヌーの旅は大内青琥さんや林和代さんも経験している。7大陸最高峰制覇や「Pole to Pole」あたりでちょっと常人離れを開始しておられますが、まだ想像の範囲内というのか、人間のやる冒険として理解出来ます。
しかし。次はちょっと呆然としました。石川さんは気球に乗って高度10000メートルまで上昇し、ジェット気流に乗って太平洋横断を目指したのです。ゴンドラは余圧されていませんから、石川さん自身の言葉を引けば「高所順応もへったくれもない」。そして、この冒険はおそるべき失敗を迎えます。必要な燃料積載量計算を誤った気球は太平洋のど真ん中に不時着し、ゴンドラは漂流。船酔いに加えてゴンドラへの浸水が始まり、さしもの石川さんも、この時だけは観念しかけたそうです。幸運にも漂流中のゴンドラが通りがかった貨物船に発見され、石川さんは生還を果たすのですが・・・・。
いかがですか。ほとんど日本のミュンヒハウゼン男爵です。しかもこちらの冒険は実話ですからね。開いた口がふさがらないとはこのことです。エクストリームすぎです。
とはいえ、それだけの冒険譚を並べただけでは、ただの自慢話本にしかすぎないですよね。
この本が素晴らしいのは、こういったエクストリームな旅を完全に相対化してしまっているということです。相対化というとわかりづらいかもしれませんね。要するに、こういうことをしているから偉いとか凄いというのではないんだという姿勢を、明確に打ち出しているということです。書評的な定番フレーズでは、こういう時に「自慢するでも卑下するでもなく淡々と」と表現するのですが、私は「淡々と」ではないと思います。石川さんは自慢でも卑下でも淡々とでもなく、一つの強い意志を持って、こういった冒険行の数々を相対化しておられる。勘違いしないでくれとはっきり書いておられる。
例えば石川さんは、インド放浪の話を紹介した後で、こう書いておられます。
「もちろんいまここにある小さな世界から、その先にある大きな世界を経験することができる人はたしかにいて、ぼくはそのことをインド旅行から10年以上経って知りました。しかし、そういったことも、旅に出たからこそ考えられたので、やはり僕にとって旅は必要だったのでしょう。『旅に出よ』というつもりはありません。しかし、世界を経験する方法として、旅という手段が非常に有効であるということを、僕は自信を持ってみなさんに言うことができます」(55ページ)
旅は絶対的な手段ではない。この指摘は、終章でもう一度深く掘り下げられることになります。
終章「想像力への旅:もう一つの世界へ」の冒頭で石川さんは、次のような問いを読者にかけます。
「しかし、辺境の地へ行くことや危険を冒して旅をすることが、本当の冒険なのでしょうか?」(252ページ)
これは、前著『全ての装備を知恵に置き換えること』で石川さんが発していた問いと表裏一体を成すものだと私は思いました。前著で石川さんは、エクストリームな旅に用いられる様々な便利装備の持つ便利機能を人間の知恵で代替してみるということは、一つの冒険となりうると指摘しています。例えばいま私たちはガスに圧電素子で点火して手に入れた火力で、煮炊きをしていますね。それをガスや圧電素子やコンロを用いないでやってみる。みなさんは出来ますか? どうやって火を手に入れるのか。100円ライター? 100円ライターが手に入らなかったら? 虫眼鏡? 太陽が出ていなかったら?
太古の人間は100円ライターも虫眼鏡も無しで火を手に入れられたでしょう。その後、より便利に火をおこす方法を人類は何万年もかけて工夫してきて、100円ライターやチャッカマンが生まれました。私は100円ライターやチャッカマンを生み出した人類の知恵と工夫は本当に偉大だと思っています。いまや100円どころかタダで貰えたりするあのライターには、いくつもの奇跡が詰まっています。あの筐体は何で出来ていてその原料はどうやって採取され、どのように加工するのか。中に入っているガスは何で、どこで手に入れてどうやって封入されたのか。着火するための圧電素子というのはどんな原理になっていて、どうやって作れば良いのか。一つ一つ見ていくと、あれはとんでも無い逸品なんですよ。
自力で火をおこしてみて、そこから100円ライターを生み出すまでに人類が積み重ねてきた数万年の火の歴史に思いを馳せてみる。それは一つの冒険である。石川さんはそういうことを言っているのだと私は推測します。
ですから、石川さんはこう断言します。
「現実に何を体験するか、どこに行くかということはさして重要でないのです。心を揺さぶる何かに向かいあっているか、ということがもっとも大切なことだと僕は思います。」(254ページ)
そして、自分が冒険家と呼ばれることへの違和感を表明するのです。それぞれのやり方で「心を揺さぶる何かに向かいあっている」人は、実は世の中に沢山いるのであって、自分は特別な存在ではないと。
私はこの石川さんの主張に深く共感します。
石川さんが指摘するように、旅は経験の手法としてとても優れていますけれども、だからといって、みんながみんなのべつまくなしに旅に出ていては、地球は温暖化するし世の中は回らない。旅は自己変革の一つの手段に過ぎない。
実は、写真家であり文筆家である石川さんの生業を考えると、こういうことって黙っておいた方が良いと思うんですよ。石川さんの冒険がスペシャルなものだと思うからこそ、そこにお金を払う人がいる。とすれば、なるべく自分を高く見せる方が商売のやり方としては効率的なはずです。「自分はこんな凄いところに行ってきた。土産話をしてやるからお金払え。」という売り方が出来ますから。ところが石川さんはそれをしない。自分の旅はスペシャルなものじゃない。あなたの生活の中にだって同じくらいに心ときめくものが見いだせるはずだと言い切ってしまう。
そこにこの本の価値の中枢がある。私はそう思います。