評論家の福野礼一郎さんの座右の銘が「感じるな、考えよ」なのだそうです。これについて書かれた文章をどこかで読んだ事がありますが、とても考えさせられるものでした。
福野さん曰く、実物に触ってみれば、あれとこれが違うとか同じとかいうことは誰でもわかる。しかし、それが「何故そうなのか」を説明できる人はごく一部である。つまり、あれとこれが違うか違わないかを語ることしか出来ないような物書きと一般人の違いは、結局「現物に触ったかどうか」にしかない。ということは、一般人が現物に触ってしまえば、その程度の物書きの書く文章には何の価値も無くなってしまう(だから一部の物書きは現物に触ったかどうかに異常に拘る)。というわけで、物書きとして立つのであれば、違いを感じているだけでなく、何故違うのか考えなければいけない。
そういう文章でした。
これはかなり深い洞察です。もちろん人間には文章力の高低がありますから、同じモノに触って感想文を書いてみても、面白いことを書ける人とつまらないものしか書けない人がいます。ですが、そういった芸風も慣れられたら飽きられる日が来ます。では、どうしたら良いのか。いや、私は物書きで商売をしていないので、別の話に置き換えて考えているのですけれども。
今、太平洋諸地域には沢山の航海カヌーがあります。地球4周分を航海したホクレアをはじめ、1周半走ったテ・アウレレなど、その土地の象徴とも言えるような古豪も居れば、マカリイのようにおらが町の船というのもある。イオセパやアオテアロア・ワン、ホクアラカイのような大学の船もある。タキツムやテ・アウ・オ・トンガのように国そのものが持って教育に使っている船もある。
どれも、その持ち主たちにとっては非常に深く重い意味がある船なんだろうと思います。だから、そういう船に実際に触れてみれば、凄まじいオーラに圧倒されてしまうと思う。それは私たちの国でも、例えば比叡山延暦寺の根本中堂などオーラ出まくりの有形遺産に引きつけて考えてみれば理解出来ます。人々の思いが降り積もった場所やモノはやっぱり凄いオーラがある。アッシジの聖フランチェスコ聖堂に行った時もそれは思いましたし、スペインの小さな町の教会だって同様に威厳というものがあった。
それは、その場に行けば(よほどの鈍感でない限り)誰でも感じられるものです。
自分自身、そういう歴戦の航海カヌーが持つ凄みを感じてみたいという欲望はいっぱいあります。だから私はハワイまで行き、マリタイムセンターに何度も通いました(しかしついにホクレアは帰港しなかった)。それは別の言い方をすれば、物見遊山の精神です。思い出してください。近世の観光旅行の多くが聖地への巡礼行為だったことを。西洋ならばローマ。サンティアゴ・デ・コンポステラ。日本列島ならば富士山。大山。伊勢神宮。みんな「オーラ出まくり」のモノを見に行く行為でした。何も変わらない。
そう考えると、私自身が単にホクレア見たい見たいだけでホクレアの日本航海を応援してしまうのは、どうなんだろうといつも思うのです。それだったら自分で今度こそハワイに見に行けば良い。オーラを感じたいだけならね。
私はやはり、ホクレアが日本を目指しているというのは、その航海が重要な意味を為しうるものだと考えてのことだと思っています。単に自慢の船を見せに来たいだけじゃないだろうと。それだったら以前にアラスカやカリフォルニアに行った時みたいに空輸したって良いし、貨物船に載せて来たって良い。単なる交流が目的ならば、それで問題無いわけです。でもナイノアさんはその選択肢を今のところは取っていない。そこにはやはりハワイの人々にとっても意味があるはずです。
じゃあ、その意味は何なのか。
そしてまた、そういう大変な思いをして日本まで来ようとしている船が私たちに伝えたい事は何なのか。
出航の時点では誰にとっても良くわからないものかもしれないけれど、ホクレアが日本を離れる時には、それに関わった人々みながそれぞれ、自分とホクレアの間に確かな意味を持ちうるような航海になるはずだと私は信じています。一つだけの、誰もが共有する公的な意味ではなくてね。きっと関わった人の数だけ意味は生まれることができるでしょう。
では、その意味というものは私たちが実物のホクレアに触れて感じているだけで形になるのか。私はそれではダメだと思う(私は、ですよ)。
だって感じることは情緒の領域であって、それだけなら曖昧なままに流していっても良いものですからね。例えば小学生を東大寺に連れて行く。感想を書かせる。
「大きかった。」
「こんな大きなものを昔の人が作ったなんてすごいと思いました。」
「鹿煎餅まいう~。」
これだってたぶん彼らなりにオーラを感じて何か書こうとはしたんだと思います。でも書く技術が無く、対象をより深く理解する為の周辺的知識が無いから、感性の領域だけに留まってしまってそこから出てこられない。西洋の哲学では人間が何かを経験する方法を感性と悟性に分けることがあります。航海カヌーは感性だけでも感じることが出来ますが、より深い理解、「これはこうなんだ」と悟る理解は、「それは何?」という問いかけが積み重なっていく中で発生していくでしょう。その時、「何?」に応える知識がどれだけあるかが、理解の深度を決定します。
理解の深度。これは論理深度という考え方を使うと説明しやすいかもしれません。論理深度とは、感性が感じた大量の生情報から必要な情報を取捨選択し圧縮して、加工された情報を作り出すプロセスの中で、生情報から加工後の情報を生み出すまでに行われた演算の量のことです。例えばスーパーで買い物をした後のレシートを見てみましょう。店の名前みたいなのの後には、買ったものの値段がズラ~っと並んでいます。そして最後に小計、消費税額、合計金額。私達が払うのは合計金額ですね。そうすると、買ったものの値段一覧を全部足して5%を乗せて端数を切り捨てないとその金額は出ない。この時、買い物という文脈において、合計金額の論理深度は買ったもの一覧よりも深いのです。
「でかい」「かっこいい」「案外速いな」「マストは2本」「帆の形は」「クルーの表情は」「クルーの動きは」「いつ建造された」「どこへ行った」「何故建造された」「他の船との違いは」
こういった生情報を大量に取り入れて、そこから必要なものを厳選し組み立てて、自分なりのホクレア像、自分なりの航海の意味を研ぎ出していく。元の情報が多ければ多いほど、そこから研ぎ出されるものは自由になります。面白いものが出てきます。札幌雪祭りと同じです。
ですから、私は現物を見ればそれでよしという考え方には与しない。感性が全てだなんてのは言い訳に過ぎないと思います。研ぎ澄まされた感性を持つ一流のアーティストほど、他人の何倍も何十倍も勉強して、そこから必要なものを磨き出す訓練をしているはずです。そうやって感性を研ぎ澄ましていく。そうでないアーティストは時の流れの中であっと言う間に消えていく。長い間生き延びているアーティストにはそれなりの理由がある。
大事なのは、いっぱい生情報を手に入れること、そしてそれら情報の山の中から、自分なりの理解の形を削り出すことです。もちろん、それには技術が要る。情報を手に入れる技術、要らない情報を捨てる技術、厳選された情報を組み合わせて一つの意味を創造する技術。
だとしたら。
ホクレアがホノルル港7番埠頭を離れ、日本に向かってクラブクロウ・セイルを上げるまでに、少なくとも私個人は、出来るだけの勉強はしておきたいなと思うわけです。そうやって集めた情報から研ぎ出された鋭利な意味だけが、ホクレアを知らない沢山の日本の人々のハートを一撃で貫き通せると思うからです。
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main page「ホクレア号を巡る沢山のお話を」
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